明治四年三月、木村伝六が開拓使御用達となった際、味噌醤油製造器具の調達を指示され六月に札幌へ送っている。その七月開拓使は篠路村に醤油醸造所を設けている。それは篠路村並びに周辺が従来豆麦の生産地であること、札幌市街地に近いこと、石狩川岸にあって水陸運輸の便が良いことなどの理由からである。五年さらに場屋を築き機械を整備している。この醸造所は十一年建築器械器具等あわせて金五七七三円六四銭四厘、四カ年賦上納で沢口永将に払い下げている。しかし沢口は経営に誠意がなく、その製品ばかりでなく原料まで売却して開拓使に迷惑を及ぼした。その後十二年に月形村の集治監に譲渡した。集治監では囚人に製造させ、製品は専ら囚徒用に供し、残りを〓、〓、〓の商標で売っていた。樺戸と篠路では距離があり、囚人の監督に支障があるため、集治監の経営も止め、二十年十一月笠原文平に土地家屋器械等二カ月間無料にて貸し下げている。貸下時二十年度の経営状況は「醤油醸造高三八八石余、味噌製造高四五石余、代価合せて二〇一六円余。販路は札幌小樽空知樺戸地方なり」(北海道庁第二回勧業年報)とある。