近世には幕府・各藩が金融の実権を握り、為替組、蔵元、御用達、両替商などがみなその指示で動いていた。そのため北海道開拓の草創期にあって開拓使は、北海道の行政・開発などの事業のほかに、移民の移住費、定着のための興業費、流通資本の貸付などまで行わなければならなかった。
明治四年八月、政府は開拓使の北海道開発に当たって従来の定額金を廃し、五年から一〇カ年間の経費を一〇〇〇万円と定めた。いわゆる一〇カ年計画の決定である。しかし初年度分の定額金は国庫窮乏の折として五〇万円しか下付されなかった。開拓使は、開拓の基礎的事業の推進に踏み出す予算として三〇〇万円を見込んでいた。そのため為替座三井組に委託して開拓使兌換証券二五〇万円の発行を政府に出願して許可を得た。この証券のうち一三二万円は開拓使事業費とした。また残り一一八万円は管下市民の殖産資金として貸付けることにした。そして貸付利率の収得金をもって兌換券の償却、移民の産業資本融通金、非常の準備金等に充当する方針を立て、その使用期間は一〇カ年とし、回収は開拓使が行うこととして許可を得、五年一月から四月までに逐次同証券の発行を行った。ついで政府が新紙幣一一〇万円を開拓使に貸付けたこと、また開拓使証券が製造粗雑で贋造が出たことなどのため、五年六月以降、その期限と回収などの約定を変更した。五〇銭以下三種の証券期限を変更し、六年十二月とした。また一円以上の三種は大蔵省が回収することになり、開拓使は九年三月で償却を完了した。