内外多事で経費が嵩んで財政の緊縮に迫られた政府は、官金取扱い用達の安易な使役を止め、七年二月各府県に為替方を設け、為替規則並びにその手続に修正を加えた。為替方は毎年取扱うべき金額の概算三分の一を担保として提出することとし、さらに同年十月二十二日付でこれを修正し、担保額を預け金相当額に引上げた。そして二十四日には追加担保の提出期限を十二月十五日限りとした。このため小野組、島田組は増額分に相当する抵当物の調達ができずに閉店し、為替方を返上して負債処分を受けるにいたった。
島田八郎左衛門と札幌との関係については、六年二月札幌本陣(東創成町、南二東一)を七〇〇〇円一〇カ年賦で払い下げられ、営業資本金一万円の貸与を受けたことにある。翌七年十二月黒田長官は自ら大阪へ出向き、貸付会所について状況を視察して島田組手代の奸計を発見し、札幌本陣並びに付属品の返還を求めている。
用達木村万平は六年一月榎本六兵衛、島田八郎左衛門らと保任社を組織した。そして本道の物産を清国に輸出する計画を立て、開拓使から資金一〇万円と汽船北海丸の貸付を受けた。この官金一〇万円を基に、社中の積み金及び荷為替などの利息を加え、八カ年間の約二五万七六五九円の基本金積立てを目標に直輸出を盛大にしようと計画した。しかし七年五月開拓使は、これについても保任社との契約を破棄し、貸下金一〇万円及び北海丸の返納を命じた。そのため保任社は解散し、木村万平は札幌運漕店雑貨店を閉鎖した。さらに八年三月木村万平は用達を解かれ開拓使から借入金の返済を求められている。なお用達伊坂・宮辺の店も共に開拓使からの借金のため整理された。榎本六兵衛の札幌為替店も閉店となる。この時石川正蔵は独立して為替店を開いている。これら用達の店の整理は、七年の札幌の不況をさらに深刻なものとした。