札幌の不況の最中、六年十二月黒田次官の上表により、北海道への屯田兵設置が決定した。予定兵員一五〇〇人、家族男女合わせて六〇〇〇人、その経費は六八万円、三カ年に分けて召募することになった。まず七年十一月琴似村に屯田兵屋二〇八戸が竣工し、八年宮城・青森・酒田及び道内の士族の志願者一九八戸九六五人がここに移住した。九年五月さらに青森・秋田・鶴岡・宮城・岩手等から士民二七五戸男女一一七四人を募って、琴似村に三戸、発寒村に三二戸、山鼻村に二四〇戸が入植した。そのため市況の回復が見えて、市民は落ち着きを取り戻した。しかし家屋建築資金の貸与を受け、未納のままの札幌離脱者も多く出ていた。そのため開拓使は足止め策として、八年六月札幌移住市民の生計困難で貸与した家屋営繕費の返納を怠る者に対し、貸与額の八分を棄捐し、二分は月々一円ずつ納めさせることとした。一方では、八年五月五日の達で、小樽・石狩・篠路太間の、豊平丸・弘明丸による渡航者並びに荷物などを当分無賃とした。また諸商船も弘明丸により低価で曵き船するなど、市民へ安く物資の供給をはかった。また東京より仮学校など諸施設を札幌へ移し、市民の永住を施策している。
なお工業においても、五年以来、東創成通の工業課構内機械所など設備の充実がはかられてきた。一方味噌、醤油、ビール、葡萄酒等の醸造、製網・製糸などの製品施設工場の充実が計られるのはやはり八、九年以降で、商品の流通もこれに伴って拡充してくる。