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山口村の成立

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 山口村は札幌周辺村のなかでも最も成立が遅く、十六年四月に設置された。ここは紅葉山砂丘と星置川の泥炭湿地が多くを占め、それだけ土地条件が悪く入植が遅れたのである。
 山口村は当時下手稲村に属し、十四年九月に山口県から宮崎源治右衛門総代とする植産会社の人々が移住したことに始まる。山口村の設置伺が札幌県調所広丈から内務卿山田顕義に出されたのは十五年八月九日で、以下のように述べられている(札幌県治類典 道文九五九三)。
客歳九月中山口県ヨリ同村字中嶋へ移住ノ者追々増加幾(ほと)ント五十戸ニモ相至候処、元来同村(下手稲)ハ其区域広濶ニ候ニ付、此際分村致候方村民奨励ノ一端トモ相成、且施政上便宜ヲ得候ニ付(中略)一村ヲ設ケ山口村ト称シ申度候条、速カニ御許可相成度。

 これによると当初移住した地は、字中嶋と呼ばれている。これは濁川と清川の中間に位置していたためとみられる。もうすでに五〇戸に近い移民があったというが、事実十四年十月に二二人、十五年三月に二六人から地所割渡し願が出されている(札幌県治類典 道文八一一一、八七九五)。開拓使では一村のめどを五〇戸においていたので、村落の形成の条件は満たされていたといえよう。山口村と称されたのも故国にちなんだこともあるが、「村民奨励」のためにあえて〝新天地〟に命名されたと思われる。
 山口村の設置は十五年十二月二十二日に、下手稲村を割き設置の告示がなされた(札幌県布令全書 明治十五年)。