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開墾の奨励と勧農規則

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 二年十一月開拓使が定めた移民扶助規則の対象には工・商移民も含むが、中心は募移農夫・自移農夫であり、食糧(玄米)を扶助し、家屋、農具、家具などを給与して開墾に励ませ、農民として自立させることを目的としている。募移農には初年限り穀物・蔬菜の種子を給し、開発料として一反歩に付金二両を与え、自移農には同じく一〇両を支給することとした。その後も地域により対象によりいくつかの扶助規定が制定され、またこの規則も後年改正されている。それらの内、四年一月には札幌・石狩の町役人に対して「札幌空知石狩ノ三郡広原相連リ居候ニ付テハ、万人競テ開キ候様無之テ不叶ニ付、官員農商ヲ不問、開墾心掛候ハ今日ノ御趣意勿論ノ事ニ付、他邦ノ者タリ共願出次第御差許ニ相成(中略)且開発料トシテ壱段ニ付金弐両ツヽヲモ被下置、右御趣意柄厚ク相心得、精々開発ノ心掛肝要之事」(開拓使布令録)との達を出し、二月には、札幌市街の商人・職人に対しても起返料一反歩に二両を与えて開墾することを許可している。
 このような移民に対する直接的な保護施策による開墾奨励とは別に、移民の日常の生活態度から近隣との付き合い方に及ぶ諭告のたぐいは大変多く、徳川時代の百姓に対する掟そのものというべきものもあった。
 五年五月に定められた勧農規則は、村落行政制度の規定であると共に、とくに村役人の勧農上の役割を強調し、同時に移民扶助料の改正規定も含むというものであった。この規則は成文としては伝わってなく、内容も各種規定を一つにして「勧農」を押し進めるためのものであったらしい。その中に「毎伍長明六ツ半時拍子木撃チ、其組下ノ四戸速ニ応答ノ拍子木ヲ撃チ農事ヲ始メ、夕七ツ半復拍子木ヲ撃チ収メシムヘシ」「村役及ヒ伍長ハ勉テ部下ヲ励シ、耕耘其時ヲ誤ル事勿ラシムヘシ、若病患等ニ罹リ止ムヲ得ス其時ヲ失フ者アラハ村中助情シテ是ヲ補フヘシ」「一村ニ一ツノ倉ヲ造リ、毎歳秋収ノ種子ヲ納サセ、翌年之ヲ村々ニ与へ以テ社倉ノ根据トナスヘシ」などの項目がある(壬申評議留 道文四二七)。
 これは五戸に一人の伍長を置いて村落末端を督励するしくみであり、札幌周辺村落ではこれを一つのより所にして勧農が進められた。いわば勧農のための時宜に応じた決まりであり、翌六年五月の開墾局(ママ)達の中でも本規則に言及し、本年も不日御規則発行の予定うんぬんと述べられている(市在諸達留 北大図)。一方で統制の行き届いた士族団体移住村などでは、これと似ているが独自の規則を定めて運営をしている。
 札幌本庁開墾掛の「細大日誌」(市史 第六巻)によると、五年六月三日以降の官員の周辺村々への出張は大部分が「勧農ニテ出張」という表現となり、それは七月いっぱい続く。六、七月は農事奨励の好季節であろうが、勧農規則等の制定を期にして開拓使が勧農に力を注いだ様子を想像することができる。

写真-8 「勧農ニテ出張」の記事(細大日誌 道図)