この時期に屯田兵制が導入された社会事情として、次の四つが考えられる。第一はロシアとの国境画定問題をかかえ、兵備の必要にせまられたことである。北海道開拓をすすめる拠点として札幌の建設をすすめ、ここに常備兵を配置する案は三年にすでにあったが許可されず、函館にわずかな砲兵がいるのみだった。これはむしろ祝砲など外国船出入にともなう儀礼的役目と市中警備を兼ねたもので、兵備というにはほど遠いものであった。六年の徴兵令から北海道は除外されたため、兵備空白の状況下で樺太における函泊出火事件が起き、政府内部に出兵論がにわかに台頭した。征韓論とからんで派兵には至らなかったが、問題は外交交渉に移り、樺太放棄をめぐる厳しい国際政治のもとで兵備は急務とされた。開拓使幹部は屯田兵制が鎮台(正規軍)を北海道に置くよりはるかに安上りだと強調することで財政難題をくぐりぬけ、実現にこぎつけたのである。
第二は住民の増加にともなう民政維持、治安平静の機能が求められていたことである。その任にあたったのは邏卒(警察官)であるが、やっと制度が芽ばえ試行の段階にあり、充実になお時間と経費が必要と考えられていた。そんな矢先、道南地方で漁民による増税反対運動が騒動化し、官吏や商人宅をこわし負傷者を出し、開拓使はこの収拾に苦慮した。いわゆる福山江差紛擾だが、あらためて治安維持対策の必要を認識させられ、これが兵備を兼ねた屯田兵制に発展する素地となる。屯田兵が憲兵として置かれたのはロシアへの外交配慮であったが、一面国内警衛の役割を明確に表わしたもので、後日の警察との対立確執の芽を当初からはらんでいたわけである。
第三は開拓の行きづまりを打開しようとしたことである。屯田兵に限らず、一般農民の移住に家作料、農具、種物料などの供与がなされ、商工民にも就業を助成する措置が施された。にもかかわらず定着率はいたって悪く、新規移住とともに既住者の離散防止が大きな課題であった。保護を受け姿を消すような移民を開拓使が官費で募集することをやめ、「換之以屯田兵、検束移民、以兵制之規、妄可莫遁亡之煩、以設屯田兵也」(松本系譜)というのが松本十郎の述懐である。
第四は札幌建設を軌道にのせなければならない切迫した事情があった。開拓使札幌本庁管内の住民数は六年に一万人を越えたが、本庁舎工事の終了など官営事業の縮少、移民保護策の転換などが影響し、翌七年には七〇〇人台に急減してしまったという(統計のとり方にも問題があるかもしれない)。大不況に見舞われたわけで、北海道開拓の拠点づくりを継続するためには、大型事業を実施し国家財政の多額な投融資が不可欠であった。屯田兵制はこうした社会事情の下で発足したのである。