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経王寺

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 西本願寺などとは異なり、日蓮宗の場合は設立に至るまで多少の時間と混乱を経なければならなかった。まず九年五月、中村甚五兵衛ほか二人が「日蓮宗内死亡取扱所建立之願」として、本国の従類(一族など)も呼び寄せたいが、「父母妻子等モ懐土之思ヒ不厚候テハ、従類等呼寄候場合ニモ相運ヒ不申、実ハ銘々共迚モ寤寐の思不安当惑至極仕候」(開拓使公文録 道文五八一八)と心情を訴え、ついては豊平村大岡助右衛門所有地を譲り受けて堂宇を建設、僧侶を居住させ安心立命したいと願い出た。しかし開拓使から永久維持の方法が記載されていないという理由で却下されたため、さらに堂宇建立に関する見込書を提出したが、十月に住職教導職選定の上願い出ることなどの条件を付され、許可は得られなかった。

写真-5 経王寺正面図~願書中~(寺院教導書類 道文3125)

 ついで翌十年、前年の願を引継いだ形で予定住職名をあげて再び新寺建立願を提出したが、開拓使は「府県ニ於テハ新寺建立難相成場合ニ有之候得共、当使管下の儀ハ特別之事故人民願ニ依リ不得止分ハ其手続ヲ経テ太政官へ相伺可然義ニ有之」(開拓使公文録 道文五六七八)と原則論を持ち出し、さらにこのための手続等についてくわしい指示を行ったが、これにより出願は再び中断した形となった。
 こえて十二年十一月に至り、中村甚五兵衛ほか八人連名で三度目の願書が「日蓮宗一寺創立願」として提出された。これによれば土地は前回どおり豊平村大岡助右衛門私有地八二五八坪を寄付、山号寺号を妙法華山経王寺とし、檀家数一八〇戸、住職予定者は松井寛義となっている。そして翌十三年四月、ようやくにして設立許可を得た(寺院書類綴込 道文五二一九)。