主要宗派のうち、最も遅く進出したのは浄土宗であった。また、これまでの各宗は真宗大谷・本願寺両派、曹洞宗のように教団の主導が強く働いた場合と、日蓮宗のようにむしろ住民側の主導によって設立した場合とがあったが、当寺の場合は布教を志した僧の活動が契機となっている。いずれの場合も北海道開拓地において多くみられる型である。
担い手となったのは、増上寺より「有志布教ノ為」来札した少講義大谷玄超である。札幌の商人であり、区総代人でもあった石川正蔵の『公私諸向日誌簿』十五年十一月十五日の項に「大谷玄超ナルモノ来ル。右ハ建立之件之由」とあって、両人がこの日初めて会ったらしく、また増上寺からあらかじめ明確な連絡があったようでもない。同月十七日の項には「大谷玄超并〓両人来、右ハ浄土宗建設一条ナリ」とあり、二十六日には「水原氏へ行寺一条内談」とあって、ただちに寺院創立が協議された。
しかし創立の議はとりあえず見合わせとなったらしく、十一月二十九日付で小樽郡熊碓村浄土宗観音堂にある尊像の、札幌でいわゆる開帳の届を水原寅蔵、石川正蔵、高橋亀次郎の連名で提出した。場所は大通西四丁目の石川の持ち家、期間は十二月六日より六〇日間となっている。そして前出石川の『日誌簿』十七年三月十四日の項に「建寺願ニ付、院号并住職之義御談有之候処、右書類認直シ本日大谷氏ヨリ役場へ差出候事」とあって、この時期に具体的な案の完成したことを示している。寺号公称が許可になったのは同年四月二十五日付である。