明治四年十月に、本堂を完成した東本願寺管刹で第一回報恩講が執行された。おそらく札幌における最初の正式な仏教行事であろうが、各寺院行事については次編にまとめたい。
六年、東本願寺は権少教正渓勝縁、中講義楠潜龍ほか二人を派遣、七月に札幌の管刹で五日間説教を行った。これに関し、開拓使本庁民事局は「(前略)抑説教ト申スハ凡人タルモノノ身ヲ修メ上ヲ敬ヒ家業ヲ励ミテ冨有ヲ致シ、各自ノ権利ヲ得サシメ候様ニト、朝廷ヨリ深キ御趣意ニテ」(寺院書類抜萃 道文二四八二)と、説教が最終的には人民の利益となることを力説し、それが朝廷の趣意であることを強調している。すなわち、この説教は少なくとも表面的には教導職としてのそれであって、僧侶としての説教ではない。しかしそれが聴衆に深い感銘を与えたらしく、この日札幌の戸長らが同管刹に中教院を設け、渓権少教正の在勤方を願い出ている。しかしおそらく真宗等諸派の大教院分離運動の影響であろう、これは実現しなかった。
八年五月に大教院が廃止され、以後各自布教となったことにより、まず東本願寺札幌管刹は同月に市中および近隣村落へ定例布教を行うこととし、許可を得た。同十年には西本願寺が市中定例布教を届出、他もしだいにこれにならった。このほか、十年には曹洞宗の権少教正辻高顕が来札、七月三十一日と八月一日に同中教院で説教を行ったほか、同年には同宗から、本宗信仰の者より説教依頼があって出張する場合の表示等に関する届があり、この頃から各宗の仏教的布教が急速に増加し、これが契機となって新たに寺院・説教所等の設立された場合も少なくない。出張説教は、本府という性格上開拓地としては早期に寺院が創立されたため可能となったもので、これが村落部に寺院・説教所のない不便・不安の解消にもある程度役立ったと思われる。