こうして諸教派・ミッションは、アジア宣教の中に日本を位置付けた。キリシタン禁教政策が続く日本では伝道活動を公然とはできなかったが、解禁の到来のために、宣教師たちは日本語の習得、聖書の翻訳や伝道パンフレットの編集に当たっていた。一方、政府は明治六年(一八七三)二月二十四日付で太政官布告第六八号を発し、キリシタン禁制などの高札撤去を命じた。これは高札の内容が一般に熟知されているとの理由であって、キリスト教を解禁したものでも黙許を示唆するものでもなかった。しかし一般にはこの布告をもって政府が信教の自由を保証したかのように受け取られ、宣教師はひそかに洗礼を受けていた日本人信徒とともに公然と活動を開始した。
高札撤去の前年の五年二月、わが国最初のプロテスタント教会が開港地横浜で設立、「横浜公会」と称した。当時、プロテスタントの宣教師たちは、教派の競合を日本に持ち込むことを避けようと考え、最初の教会を教派に属さない無教派の教会として設立した。そして今後設立する教会の組織は無教派であることがよいとして、「公会主義」を掲げた。しかし、この最初の教会合同運動は八年に「日本基督公会」の設立が不調におわり、頓挫した。北海道へのプロテスタントの伝道は、この合同気運と挫折の時期に始まった。
すなわち、七年一月にアメリカ・メソヂスト監督教会(*1)のM・C・ハリス夫妻が、五月には前述のイギリス国教会CMS(*2)の宣教師デニングの函館着任をみた。函館では、それ以前から活動を開始していたハリストス正教会、カトリック教会の動きと合わせて、宣教師や信徒の活動が活発となった。それらの活動は政府が進める天皇を中心とする国民教化政策の根底を揺るがすものとして、開拓使の警戒するところとなった。現地の開拓使函館支庁は、五年にニコライの弟子たちである正教徒を捕縛した事件に次いで、高札撤去後も、デニングに説教をさせた小川淳などを逮捕し裁判所へ送った。それはW・S・クラークが札幌に着任し、札幌農学校一期生に伝道した前年のことであった。
*1 アメリカ・メソヂスト監督教会 当時メソヂスト・エピスコパル教会ともよばれ、日本では美以教会と称するようになる。他のメソヂスト二派とともに明治四十年(一九〇七)、日本メソヂスト教会を設立した。
*2 イギリス国教会CMS 当時エピスコパル(監督)教会ともよばれた。明治二十年(一八八七)、同派のSPG、アメリカ・ミッションと合同し、日本聖公会を設立した。