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デニングの進出と撤退

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 各教派の宣教師のうち、札幌への伝道に最初に着手したのは、前述のCMS派遣のW・デニングであった。彼は、札幌では街頭に出て書籍の頒布と路傍説教を行ったが、伊藤一隆によるとその日本語は、すでに流暢なものであったという。デニングは伊藤一隆に洗礼を授けた後も(したがって、伊藤はデニングの属する教派の信徒となった)めざましい伝道の成果を挙げた。
 まず、十一年夏、デニングはアイヌ語研究を名目として平取まで足を伸ばした。次いで平取から札幌に赴き、農学校教授ブルックス宅で集会を開いた。九月には札幌第一小学校の教師荒砥琢哉に洗礼を授けている。荒砥の場合、入信後圧迫が加えられ転勤を命ぜられたという。のち彼は退職して伝道者となり北海道・台湾で活躍した。このときデニングは、ジョン・バチェラーを伴っていた。バチェラーは当時神学生で、療養のために来日し函館に滞在していたが、アイヌ民族への伝道に関心を持ち、アイヌ語を教わるために対雁を訪れた(なお、バチェラーの自叙伝『我が記憶をたどりて』では、明治十年秋、初めて来札したとしており、このとき黒田清隆開拓長官札幌農学校生徒二四人に会ったという)。
 次いで十三年五月二十四日、デニングは再びバチェラーを伴い、札幌伝道を行った。五月三十日の日曜日は、在函イギリス領事ユースデンの寄寓先で礼拝を守り説教をした。ここには農学校生徒、外国人教師、同伴したバチェラー及びデニングの家族が出席した。六月十三日には伊藤一隆の実家平野家の婦人たちなど三人に洗礼を授けた。さらにデニングは、十月十七日には伊藤の実父平野弥十郎・弥市父子と中村守重ら五人に洗礼を授けた(以上の洗礼関係記事は、日本聖公会北海道教区事務所所蔵の教籍簿による。札幌独立キリスト教会の記録などでは九月十七日)。デニングは東創成町八番地(現北四条東一丁目)中村守重宅に講義所を置いていた。当時、それは札幌監督教会講義所などとよばれていたらしい。受洗した一人、平野弥十郎は五八歳となっていたが、次のようにその信仰の有様を告白している。「是迄我家は仏法信徒にして真の神の在る事を知らず、己(おのれ)罪人なるをも弁(わきま)えず、また耶蘇基督(イエス・キリスト)によりて罪より救はるゝ事を知らず、暗きを愛せし者なりしが、我が男一隆の導きに依て始て真実正道に帰し、親族一同皆々洗礼を受けたる事、此上も無き幸ひ成り」(平野父翁昔日語 拾之巻 北大図)。

写真-8 デニング司祭教籍簿(日本聖公会北海道教区蔵)

 翌十四年三月三十日には、デニングの司会により、伊藤一隆小笠原富との結婚式が講義所において挙げられた。札幌最初のキリスト教式の結婚式であった。四月にはさらに七人の受洗者があった。このように札幌の講義所所属信徒数は増加していった。札幌は函館にも増して同派の有力な教会が設立される期待が持たれた。ところがこの年、デニングはCMSから帰英を命ぜられた。当時のイギリス国教会の保守的な教理を修正した、条件付霊魂不滅説という彼の神学上の主張がCMSで問題となったからである。札幌講義所の施設は、デニングの個人的な働きと信徒の篤志によるもので、CMSの支援によって開設したのではなかったようである。十月、後述するように農学校一・二期生を中心に教会合同の計画が進展すると、デニングはオルガンや書籍を新たな教会に寄贈し、札幌の伝道拠点を撤退した。デニングの帰英、解任後は、バチェラーがたびたび札幌を訪れたが、二十五年まで札幌に同派の講義所を設けるに至らなかった。