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開墾社の移住と窮乏

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 開墾社の一行五一戸一七五人は、十五年四月十九日に博多港を出港した。本来は六〇戸の予定であったが、先行きを案じて九戸が辞退したようである。一行は神戸、横浜、函館を経て五月四日に小樽に着き、翌五日に篠路に入り旧醬油醸造所付属の倉庫を止宿所兼事務所として落ち着いた。実際に移住した者は先の名簿のうち二二人にすぎない。かわって名簿にない者が二九人みえる。わずか半年余りで半分以上の顔ぶれが変わっていた。
 一行は入植したもののすぐに開墾の着手にはいたらず、その様子は「篠路村福岡県移民開墾ノ景況視察」(市史 第七巻三三二頁)に詳しい。また入地間もなく、幹部が農商務省の貸与資金一万円余を海産物の投機に充て失敗する流用事件も起こり、一行は開墾費用や家作費どころか、たちまち生活費にも窮乏する状況に追い込まれた。十五年冬から十六年春にかけ札幌県宛に食料費の貸与を請願しているが、流用事件があっただけに認められなかった。このころ同じ福岡県から里塚に入植した報国社も窮乏に瀕しており、札幌区民による救助活動も行われ、十六年七月には北海道移住福岡県士族救恤の委員会が福岡県出身者により作られ、東京と福岡に委員を置き救助金募集が開始されるなど、社会問題に発展していった。