次に農民層の移住のあり方をみていくことにしたい。まず会社、大農場からふれていくと、この時期に特記されることは岩橋徹輔の起こした北海道開進会社である。岩橋は第四十四国立銀行頭取の地位にあり、豊富な資金力と経済人脈を利用して資本金二〇〇万円の株式会社を創設し、北海道の開墾を事業とする計画をたてた。会社は明治十二年八月二十一日に創設許可となり、この年の九月から十四年六月まで全道に三八カ所、面積にして一四万四〇〇〇町歩の大地積に及ぶ地所を出願した。このうち札幌周辺では十三年六月と十四年六月の二度出願されているが、後者の場合、下手稲村に六〇〇万坪、札幌村に二四六万坪、篠路村に二五五万坪を出願している(高倉新一郎 北海道開進社顚末)。
十四年六月の出願では下手稲村に約六〇〇万坪の仮割渡しが許可となり、八月ここに同社の第五会所(下手稲村四五番地)が設置された。十一月に徳島県から九戸三六人が移住し、この年に約六万坪の開墾をしたという(北海道事業報告 第二編)。
しかし北海道開進会社は株式の募集が集まらず資金難となり、さらに社長の岩橋徹輔の不慮の死にあい解散に追い込まれる。地所のうち未墾地は十七年四月に札幌県より返還命令をうけ、会社も解散となった(札幌県拓殖)。
北海道開進会社は背後に岩倉具視の後援をうけ、政治勢力の強いものであっただけに、莫大な地積も容易に割渡しをうけることが可能であった。あえなく失敗をみたが同社の動向はマスコミを通じて全国に報道され、無代価で大地積を容易に所有できるという誤った幻想を与え、同社にならって北海道に進出・移住する会社・結社が相次ぎ、大きな影響を及ぼすことになった。先に紹介した開墾社や植産会社もそうであったが、次の興産社もその例である。