北海道に農場開設の目的をもって、阿部興人が原文右衛門と共に十四年八月二十六日に来道した。阿部は諸所の調査と視察をしながら九月十一日に札幌に到着した。札幌では十四日に早山清太郎の案内で篠路村を巡覧したが、「篠路村属地一覧、中間ノ樹枝ヲ挙ク、四方ノ景況ヲ見ル、四面広漠平原其幾千万町歩ナルヲ不知、地味ハ頗ル膏腴(こうゆ)、葭(よし)・葦(あし)・青草蓊々(おうおう)蒼々(そうそう)タリ」と、草木の繁茂するところが一目で気に入り、さっそく十五日に地所払下の出願をなし、翌十六日に離札し小樽に向かっている(阿部興人 日誌 道図)。
この年(十四年)十二月に出した『地所御払下願』(札幌県治類典 道文九六〇四)では、二四人の連署をもって二四〇万坪を出願している。このうち一四人は板野郡、七人は名東郡(みょうどうぐん)の人で、板野郡は現在の鳴門市域、名東郡は徳島市域の人が多い。『徳島興産社申合条件要項』によると「立社体裁」は、本社を名東郡堀裏町(現徳島市)員番一〇三番地に、出張所を篠路村においた。同社は「親戚朋友ノニ十四名同盟ヲ以テ結社」され、十五年二月から二十年十二月までに開墾事業を行い、成功後は分配するものとされた。資本金は二万四〇〇〇円で、地所一〇万坪につき一〇〇〇円の出資としている。興産社では十五年四月に瀧本五郎以下二二人が、一戸につき一〇万坪の地所割渡を四月二十五日に出願した。瀧本がひきつれてきた農民の出身地は板野郡一四人、名東郡が六人であった。
瀧本五郎は板野郡木津村(現鳴門市)の出身で、のちに北海道毎日新聞を創業した阿部宇之八の実父にあたる。天保七年(一八三六)生まれで、農業のかたわら酒造業や材木店を営み、村の総代をつとめ人望の厚い人であった。北海道への移住と開墾は阿部興人(瀧本五郎の実弟)の提唱になり、興産社の社長には興人、副社長には瀧本五郎、取締役人には原文吉(文右衛門)がついた。移住は原が農民五人と獣医一人を連れて四月十日に、瀧本は農民一七人をつれて二十日に篠路村入りした(阿部宇之八 故瀧本五郎大人 北海道毎日新聞 明治三十三年五月十日~六月一日)。
興産社による移住は瀧本五郎が郷里の人びとを勧誘して行ったものだが、その後も興産社では小作人を増やしていった。そのうち多くが徳島県出身者であった(第六編三章一節参照)。