白石村は同郷の士族移住で、戸長に旧主の片倉景範をむかえ、明治四年に入植が始まってから十数年が経過しており、相対的に安定期に入っていた。白石村では村民が結束して道路修理、学校の新築、神社の再建などにあたることが多い。このころ、諸村と比較するとこのような活動が顕著で、共同体的村民意識の形成がもっとも進んでいたとみられる。この背景には村民が一堂に会して事業や村治を討議する集会がもたれていたことによる。
『白石藩移住後継者団体資料』には、明治十六年十一月改の「白石村集会決議録」があり、二十八年までの決議が収載されている(十九年から二十一年は不明)。集会はいつから始まったか不明であるが、白石村では村内の重要な議題などはこの集会で村民に諮(はか)り、「自治」の貫徹をはかっていたといえる。たとえば十六年十一月二十五日の会議では、(一)達・回章はすぐに回覧のこと、(二)道路修理の際出役できぬ時は人夫を雇うか代価を出金のこと、(三)集会への遅刻、欠席者は決議に従うこと、(四)決議は総代人が旨趣を記入捺印のこと、以上の四カ条を決議している。十七年一月二十日の会議では、(一)学校教員へ一円増給、(二)村協議費の判取帳の作成、(三)寄留人へ墓地割渡し及び死亡・火災・負傷の節に助力のために契約結のことなどが決議され、新たに村内に移住してきた寄留者を村内組織にひき入れる働きもみられ注目される。
白石村では十五年に、村民八二人五三〇円の寄付により白石学校を現在地に新築し、また村内六カ所の橋の架け換えを八八戸より一円六銭四厘を徴収して行い、道路修繕・白石神社の修理なども行っている。これらの土木事業や寄付金の徴収については、すべて集会にはかられ円滑に事業が進められたことだろう。この意味で集会は、「自治」の上で欠かすことができない大きな役割をもっていたと思われる。
白石村の片倉家の旧臣は明治五年十一月に民籍に編入され〝士族〟を失ったが、その後士族への復籍運動が当別・有珠・幌別などの旧仙台藩関係の移住士族と続けられ、十八年一月十日に復籍が認められた。