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聚落と戸口の変遷

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 この時期の札幌のアイヌの戸口の推移を示した表8でみるに、九年の樺太アイヌの対雁移住で一旦増加するが、十年代は石狩方面へのアイヌの転居が続き減少傾向を続ける。さらに十八年から十九年にかけての急激な人口減は、対雁アイヌが天然痘やコレラによる犠牲者を多く出した結果によるものであろう。その後は四〇〇人前後を維持するが、三十三年にはそれも大きく下回ることとなる。このような人口の減少傾向のうち、石狩方面への転居は著しいものがみられた。琴似村の場合、志登礼武天が八年に、また菱田時蔵が十三年に「戸籍簿」上死亡しており、残る琴似又一と和名重田藤吉も十四年以降琴似には住んでいない。発寒村の場合も、木杣卯七は十二年石狩へ、発寒小紋太はじめ能登岩次郎、伴六、多気安爾、規也里は家族あげて十二年五月二十日付で篠路へ転居しているのが「戸籍簿」上確認できる。札幌村についても同様で十四年以降茨戸方面へ転居したらしい。一時茨戸には、札幌村から転居した小藤友輔藤戸善蔵発寒村から転居した能登岩次郎、伴六等が住んでいたこともあったようである(札幌百年のあゆみ)。しかしこれも一時的で、安住の地を求めて三十年代以降旭川方面に転居していった模様である(藤村久和 札幌で話されていたアイヌ語の行方)。
表-8 札幌のアイヌの戸口の推移
戸 数人 員
明治251367
361367
411311516
511341519
611472720
711462719
8163915466449
9161897457440
10151862433429
11151836423413
12150794402392
13150771390381
14116776388388
15151749370379
16151743368375
17151765376389
18151748372376
19150410216194
20150404210194
21149406211195
22149403209194
23149399205194
24148407212195
25148410211199
26不明
27
28
29141410210200
30139402208194
31140407211196
32不明
33134351163188
1.明治8年の戸口の急増は、翌年対雁に移住する樺太アイヌを含んだものであろう。
2.12年の人口の減少は、対雁アイヌコレラの流行によるものと思われる。
3.14年の戸数減は理由不明。また表-7と人員数が異なるのは集計の時期が異なるためと思われる。
4.19年の人口の激減は、対雁アイヌコレラ・天然痘の流行によるものと思われる。
5.明治2年~14年は『開拓使事業報告』、15年~33年は『北海道庁統計書』によった。