ところが、領土交換によって樺太を放棄した日本政府は、一八世紀末以来の樺太支配のもとで「撫育」「帰俗」を遂行してきた樺太アイヌを、北海道に移住させる計画をたてた。それは、当時たとえ今国土を失ってもアイヌだけは「帝国の臣民」としておく必要がある(対雁村史)といった考えかたにもとづいていたし、また樺太アイヌの人びとのなかにも、「日本の人には先祖以来衣食住の厄介になったんだから、どうあっても日本の国へ渡り、そして日本の国に一所に住居するが善からう」(あいぬ物語)といった考え方があった。これは、近世を通じて幕藩制国家の支配下でアイヌの人びとが自立自生の道を進むことさえ困難にしていたことを示している。
移住は、樺太の譲渡から二カ月にもならない八年十月二十一日、樺太アイヌ一〇八戸、八四一人を対岸宗谷へ移すことで開始された。移住先については、樺太アイヌが従来どおり漁業が営めかつ故郷が眺望できる宗谷地方を希望したのに対し、開拓使は開拓使庁(札幌)に近い石狩に候補地を設定していた。それは、宗谷が樺太と一衣帯水の地であり、越境による国際紛争発生の恐れもあったため、種々説諭を加えるなどした。
このような政府の強引な再移住策に、樺太アイヌは強い抵抗を示した。また開拓使吏員のなかには、樺太アイヌの要求に理解を示す吏員もいて、開拓大判官であった松本十郎は、枝幸・紋別地方に樺太アイヌのための漁場設置を提案したが受け入れられなかった(石狩十勝両河記行)。かくして石狩への再移住は九年六月決行され、移住先として一旦は海浜に面した厚田地方が提示されたが、急拠内陸部の対雁(現江別市)に変更された。再移住強行は、樺太アイヌの人びとに少なからぬショックを与えたことはいうまでもない。
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写真-4 開拓使札幌本庁前の樺太アイヌの人びと 明治8年11月8日(鶴岡市松本正光氏蔵) |