明治四年(一八七一)二月、病院(のちの札幌病院)医師斎藤龍安・長谷川欽哉・米内鳳祐の三人が連名で本病院建設を嘆願したなかで、札幌の医療のあり方について次のように触れている。昨年中(明治三年)は、患者もまだ少なかったので仮病院で間に合ったが、次第に人も増加し従って患者も増加し、最近では患者やあるいは薬を受け取りに来る人の控所すらなく、軒下にうずくまっている状況である。重病人や遠方の患者は入院治療を受ける必要があるのにそれすらない状態である。昨年夏熱病流行の時も移民のうち家族全員がかかり、服薬や大小便の世話も行届かず、屎尿に染まって横たわっている者さえいた。また職人のなかには長病で病臥している者のうち、うじ虫がわいている者もいる始末である。これはみな医療の不行届からおこっていることであって、このような病人は病院へ収容して世話したならば、たとえ死んでもこんなひどい目にはあわなくてすむであろう。東京・京都・大阪のような都市では貧民の患者さえ病院に入れて救護の手を差しのべているというのに、ましてや北海道のような荒野で多くの困難にあった者が疾病にかかった時こそ、一層手厚い救護の手を差しのべてやることが必要である、と主張した(取裁録 道文四六七)。
実際、四年四月から翌年六月までの間に東本願寺では札幌市中などで亡くなった者五七人の埋葬を行ったが、そのうち一五人が大工・木挽・杣・土方といった職種の者たちであった。また死亡年齢がわかっている三三人中、二三人(うち七人は一歳未満か死産)が三〇歳未満であることからも、まさに本府建設の中心的担い手の多くを病気等で失っていることになる。死亡原因をみるに、一家三人は食中毒で、また一人は溺死とわかっている以外はまったく不明である(本府管刹役席日誌)。当時の病気では天然痘をはじめ腸チフス・発疹チフス・ジフテリア・はしか・猩紅熱等伝染病も多発し、十年以降はコレラも加わって致死率を一層高めた。
開拓使でも、このような移民の医療問題は開拓を担うべき移民受入れに際し避けてとおれない課題であった。当時の札幌の移民の場合、移民小屋は狭くて窓や床板すらなく寒気を直接受ける状態であり、飲料水さえ満足に得られないのみか、ましてや屎尿・ごみ処理、清掃等にいたるまで衛生環境を整備していく必要に迫られていた。