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火災

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 明治三年十二月、札幌本府再建にあたり、市中の官邸・民家等がたびたび出火し、しぼしば草原を延焼したり、その惨禍は著しいものがあったため、開拓使は夜廻りをおこなったり、焚火等をはじめ火の用心には厳重注意を呼びかけた。さらに翌四年三月にも、市中での野火を厳禁する布達を出している(開拓使布令録)。当時の住宅は市在ともに草葺小屋が多かったので、開墾地の野焼のためしばしば民家が類焼した。五年三月二十七日の十文字龍助の日記にも、「未下刻報道す野焼偕楽園ニ迫ると(中略)火道を見るに渓の西え向て燃去る偕楽園先ハ憂ひなし追て消防の官員等来る(中略)野焼土人又一か小屋ニ迫る権之允ニ命し人足を引て之を救わしむ」(市史 第六巻)とある。これより少し前の二十四日にも、判官岩村通俊の命により「茅野焼払トシテ官員一同出張八字ヨリ始リ五字引取」(公務摘要日誌 東京岩村家蔵)るとある。これは、官の命によるいわゆる「御用火事」なるもので茅野焼払と空家とを焼き払ったらしい。空家とは、前年以来の市街区画割で割渡された土地に板葺住宅を建てて移転すべきところ、草葺小屋から立退かなかった「辛未移住民」等のもので、強硬手段をとって空家にして焼き払ったというものである(第二章四節参照)。この時、大工頭中川源左衛門等にも消防方を命じ、万一の時に備えさせたという(札幌昔日譚)。
 六年には、区立消防組組織の議が起こり、官許を得て一番手から五番手までの一組三〇人ずつの消防隊を編成した。さらに同年札幌本庁は消防事務を民事・工業両局の担当とし、翌七年はじめて消防規則を公布し、市中消防と工業局消防とを設けた。
 この時期の火災で大きなものは、十二年一月十七日の、開拓使の規模を象徴する広壮な札幌開拓使本庁舎の焼失である。このため仮庁舎を旧女学校校舎に移し、庁舎跡はしばらく果樹蔬菜園となっていた。