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北海道庁の設置

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 三県や政府の内外において高まりつつあった三県一局制への批判や改組の声の中で、その行方に決定的な影響を与えたのが上記の金子の復命書であった。金子が北海道巡視から帰京したのは十八年十月二日であり、それから膨大精緻な復命書を編し、しかもその間政府部内では、明治初年以来の古代律令制にのっとった太政官制から近代的な内閣制へと政治機構の変革を進め、それを十二月二十二日に実現させている。そのほぼ一カ月後に、いち早く北海道統治機構の変革としての北海道庁の設置をみる。このことは、集権的一元的行政機構を目指した内閣制を頂点とする「全国的な行政機構改革の一環として構想されたことを示」すものであり、また「植民地行政機構の集中化・能率化と、中央政府によるその統制の確保という二重の課題は、中央における全行政機構の集中統一化という要請に照応するものであった」(新北海道史 第四巻)。
 明治十九年(一八八六)一月二十六日の左の内閣布告によって、北海道庁の設置をみた。
北海道ハ土地荒漠住民稀少ニシテ、富庶ノ事業未タ普ク辺隅ニ及フコト能ハス、今全土ニ通シテ拓地殖民ノ実業ヲ挙クルカ為ニ、従前置ク所ノ各庁分治ノ制ヲ改ムルノ必要ヲ見ル、因テ左ノ如ク制定ス
   第一
函館、札幌、根室三県並北海道事業管理局ヲ廃シ、更ニ北海道庁ヲ置キ、全道ノ施政並集治監及屯田兵開墾授産ノ事務ヲ統理セシム
   第二
北海道庁ヲ札幌ニ、支庁ヲ函館、根室ニ置ク
(公文類聚 官職門)

 ここに全道の地方行政と拓殖興産の事業・事務を一元的に総理する北海道庁が設立されたのである。この機構こそ金子の想定するものであったが、ただ彼が称していた「殖民局」は、井上毅の意見によって「北海道庁」と改められた。設置と同時に、かつて開拓大判官の職にあり、黒田とあわずして免官後、佐賀県権令、工部省四等出仕、山口裁判所長、鹿児島県令、元老院議官、会計検査院長等を歴任して司法大輔の職にあった、高知県出身の岩村通俊を道庁長官に任命した。

写真-1 岩村通俊