前述のように札幌県時代、薄野遊廓の周囲がゴミ捨て場化していて不潔であるという市民からの指摘がなされた。薄野遊廓は設置当時市街地に隣接した位置にあった。しかし十一年遊廓の南側が市民に割渡され、市街地が南方へ伸長し、札幌県時代に遊廓は市街地に含み込まれていた。その結果、市街地に含み込まれた遊廓に対して醜景という意識が生じたために起こった事件であったと考えられる。そしてこの意識は持続され、二十年代には遊廓周囲または土塁跡地に土堤の設置、牧草の植付、植樹をする等々の意見として提出された。これらは二十年代になって、売春への批判もあり、遊廓を封じ込めて表通りから隠し、遊廓を市民の目から隠そうという意識が表現されているのである。
狸小路の私娼は薄野遊廓よりも市街地の中心部に位置したため、より大きな批判が出される。そのため狸小路の取締りの徹底を警察に対して要求している。また二十七年の狸小路の火事以降には、警察に対して私娼の根源である曖昧飲食店設置を許可しないように要求している。これらの運動の結果、狸小路の曖昧飲食店の一部は薄野遊廓へ移転し、三等貸座敷として開業することになった。また狸小路の取締りが厳しいため、私娼たちも豊平川の東などに拠点を移すものが出てきた。狸小路については、薄野遊廓よりも市街地の中心部に位置していたこともあり、被い隠すという意識よりも、市街地外へ排除するという意識が強く働いていたようである。狸小路の私娼は、取締りとのイタチごっこを繰り返しつつ順次衰勢となり、豊平川東側などへ追いやられていったと考えられる。そして後世薄野遊廓も白石へ移転することになる。
また市街地を南北に二分する大通についても、二十年代にその利用法が検討される。その中で、個人に払い下げて放牧場とするなどの考えは批判され、公共のために利用されるべきものという意見が多かった。それは植樹地、風致地区、公園化などである。それまで大通は、民地と官地の境界として放置されてきた。しかし札幌県時代から北方への発展にともなって民地官地の区別が崩れてきたことから、市街全体の景観の問題からもその利用法が考えられたものであろう。そして二十年代後半には一部をゴミ捨て場としたり、さらに植樹地として位置付けられ、樹種の選定まで記事に出るようになる。