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上手稲村と西野の開拓

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 この時期上手稲村は、西部地域の現在の西野、福井、平和の諸地域の開拓が進展していった。三地域は当時、総称して西野と呼ばれていたが、主に十八年以降に移住者が入地し、西野は広島県出身者(一部は簾舞から転地)が多かったために広島開墾地とも呼ばれた。また福井と平和は、西野からの里道が二方(二股)にわかれていたので、福井は左股、平和は右股と称されていた。福井は福井県出身者が多く、越前開墾地とも呼ばれていた。
 二十一年十月に右股にいたる道路が福玉仙吉によりつくられ、二十六年頃から円山小学校学田の開墾も進む。右股では、二十八年四月には上手稲小学校西野分教場もおかれ(三十一年五月に廃止)、この年は札幌鉱山(西野銀鉱)の採掘にも着手している。二十九年六月十八日に、右股の発寒官林約一三万坪が解除となり、右股用水路が完成し造田がさかんになっていく。西野では三十四年に用水路が開かれ、西野米が札幌周辺では清田米とならぶ特産米となっていく。

写真-2 昭和3年の西野学田地の水田風景(『上田善七翁記』より)

 西野は三十二年に戸数は四〇戸、人口は二五二人となっている(道毎日 三十二年五月三日付)。また大庭幸生の調査によれぼ三十三年頃は、右股(平和)に三八戸、左股(福井)に二〇戸、西野に二六戸、その他所属不明が二〇戸で、一〇四戸が居住していたと推測されている(札幌周辺個別移住村落の形成過程)。