札幌周辺での米作は、開拓使が奨励しなかった話や早山清太郎・中山久蔵・江頭庄三郎らの努力の話が有名である。実際は日本の産業は農業の米作を中心に循環しており、農業目的の移住者の脳裏から米作を取り払うことはできなかった。したがって農業移住民たちは、開拓使・札幌県・道庁などの奨励や援助を待たずに米作普及の努力を進めた。札幌周辺では白石村がその成果を収めたようで、二十四年には一六〇町歩余(札幌全郡の約六二・五パーセント)の作付を行うまでに普及した。『北海之殖産』(二〇号)には「本道の農者は概ね畠作に依て生計を営み稲作の如きは亀田、福山、江差の三ケ所を除くの外は之に従事するものなく、適之れあるも試作に止まるのみ。然るに近年農業の進歩と共に水田の業益開け、遠く要水溝を疎通す、或は湿地に排渠を穿ちて稲作を専業とするもの年々増加を見るに至り、本村の如きは水田の多きこと札幌近郡に冠たり」と白石村の通常会員が伝えている。そして写真13のような「白石村水田耕作腕競」を掲載している。この中には旧仙台藩の元陪臣たちや信州開墾の人たちの名前が見える。
写真-13 白石村水田耕作腕競(北海之殖産 第20号)