表-2 後期兵員の出身地 |
兵村 出身県 | 新琴似 | 篠路 | 計 | 割合 |
熊本 | 41人 | 46人 | 87人 | |
徳島 | 17 | 29 | 46 | |
計 | 220 | 220 | 440 | 100 |
新琴似兵員の出身地は主に九州地方である。佐賀県出身者が最も多く二七・七パーセント、次いで福岡県の二五パーセント、以下熊本、大分の順である。入地年別では二十年に福岡、熊本、佐賀から、翌年は大分、徳島の各県から多く移住した。一方篠路兵員は主に四国・中国・中部・北陸地方を郷里とするが、県別では九州熊本が最多で二〇・九パーセント、次いで山口一九・五パーセント、和歌山、石川、福井の各県が続く。両兵村を合わせると、九州地方が二四六人で五五・九パーセント、そのほかの四国・中国・中部・北陸地方が一九四人で四四・一パーセントとなる。
このように新琴似に九州の人、篠路に四国・中国・中部・北陸の人がかたよっているのは、既述の社会情勢を反映している。微視的にはたまたま招募計画の実施年度がその県にめぐりあったためである。なお、制度改正による屯田兵の新招募が始まる十八年は鹿児島県が最多で佐賀、熊本の九州、鳥取、石川等から渡道し、十九年は鳥取、広島、山口をはじめ、石川、福井、新潟など中国・中部・北陸地方が多い。そして次の年新琴似、さらに篠路の順番となった。これを前期二兵村の兵員出身地とくらべれば、大きな違いがみられる。一言にしていえば札幌の前期は東日本から、後期は西日本から来たことになる。たとえば東北六県と九州四国をひとまとめにして前後期兵員の出身地域を大まかにくらべると図2のようになる。
図-2 出身地域の前後期比較
ここで応募事情についてふれておこう。士族困窮対策ではあっても、各人各様の動機をもち、県民を送り出す各県庁とも手厚く処遇した。これは前期招募と大きな違いである。当時の新聞報道から応募事情の一斑をうかがうことにする。
本年徴募の屯田兵員
本年各府県より徴募せし屯田兵員は無資無産の貧民にはあらで、本道警備の忽せにすべからざるを感じ、自ら進んで其任に当らんことを冀ひ、且つ給与地を闢き自家の生産を固ふせんとの希望に出たる者にて、今ま其の一斑を記るさんに、福岡県の久保広氏の如きは郷里に□□□紡織場を有し、現に四千円余の資産を所持し、傍ら議員たりしが、其子の熱心を貫徹せしめんとて断然移住することとなれり。
又た愛知県の秋田竹三郎、福岡県の武田貞吉、加藤茂雄外数名の如きも、千円乃至三千円余の資産を有し、中に就き武田貞吉氏の父は是れまで山林事務所の官吏なりしと。又た佐賀の副嶋勝平、福岡の平野富次郎、柴田峰太郎、宮井道彦外十数名は何れも数町歩の田畑を所有せる者の由。福岡県の西村翔氏の如きは九州青年会の幹事にして、該地方にては望みある人なる由なるが、今回率先して募集に応じたりと。
其他属官又は戸長学校長巡査看守等の職を辞し、自ら進んで埋骨を本道に期し、充分北門警備の重きに任ぜんと勇み立し人の数ある中にも、志願者吉田万之助氏の養母は旧秋月藩主黒田子爵の姉に当る人の由にして、久しく深窓の下に住んで長袖の育にも似合はず、自ら耒耜を執りて移民を奨励せんと、非常に勇み居るとのことなり。多年住み馴れし郷里を去りて断然骨を本道の野に埋めんとす。諸氏が鋭意熱心なる、余輩も亦た感激に堪へざるなり。世の徒手臥食の人、果たして感奮の情なきや如何に。
本年各府県より徴募せし屯田兵員は無資無産の貧民にはあらで、本道警備の忽せにすべからざるを感じ、自ら進んで其任に当らんことを冀ひ、且つ給与地を闢き自家の生産を固ふせんとの希望に出たる者にて、今ま其の一斑を記るさんに、福岡県の久保広氏の如きは郷里に□□□紡織場を有し、現に四千円余の資産を所持し、傍ら議員たりしが、其子の熱心を貫徹せしめんとて断然移住することとなれり。
又た愛知県の秋田竹三郎、福岡県の武田貞吉、加藤茂雄外数名の如きも、千円乃至三千円余の資産を有し、中に就き武田貞吉氏の父は是れまで山林事務所の官吏なりしと。又た佐賀の副嶋勝平、福岡の平野富次郎、柴田峰太郎、宮井道彦外十数名は何れも数町歩の田畑を所有せる者の由。福岡県の西村翔氏の如きは九州青年会の幹事にして、該地方にては望みある人なる由なるが、今回率先して募集に応じたりと。
其他属官又は戸長学校長巡査看守等の職を辞し、自ら進んで埋骨を本道に期し、充分北門警備の重きに任ぜんと勇み立し人の数ある中にも、志願者吉田万之助氏の養母は旧秋月藩主黒田子爵の姉に当る人の由にして、久しく深窓の下に住んで長袖の育にも似合はず、自ら耒耜を執りて移民を奨励せんと、非常に勇み居るとのことなり。多年住み馴れし郷里を去りて断然骨を本道の野に埋めんとす。諸氏が鋭意熱心なる、余輩も亦た感激に堪へざるなり。世の徒手臥食の人、果たして感奮の情なきや如何に。
(北海道毎日新聞 明治二十二年七月二十一日付)