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軍事的評価

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 全道に置かれた屯田兵村は三七、兵員七三三七人(戸)で家族を含めると四万人以上が移住し、給与を受けた土地が三万七〇〇〇町歩余、ほぼ同数の公有地と官用地がこれに付属したので、屯田用地の総計は七万五〇〇〇町歩にのぼった。この実績をどのように受けとめるべきか、〝北風と屯田兵はさけて通れ〟などの陰口も聞かれるが、札幌の歴史上どのような役割を果たしたのか、まず軍事的側面をみることにしよう。屯田兵が二十四年三月大演習を実施する旨発表すると大いに関心が集まった。屯田兵には他の陸軍兵士と同じ力がないのではないかという批判があり、農を兼ねるからそれでよしとする人や、より強固な体制を求める人など、世論が分かれていたからである。次の新聞論調をみることにしよう。
 屯田兵は果して戦時の用に堪へ得べきか、二千人の屯田兵は果して北海全道の警備をなすに足るべきか、将た四十余万円の屯田兵費は果して有益の効果を奏し得べきかは世人の往々疑問を生するところにして、政治家、経済家の動もすれば容喙せんと欲する処なり。(中略)屯田兵は素と兵農二者を兼ぬるものなるが故に、軍事専務の府県鎮台兵と同一に見做すべからざるの事情あるは勿論なるべしと雖も、我が北門の警備は実に此の兵に依頼し、北海道民の安寧は実に此の兵に由て保全するを得べしとすれば、此兵訓練の如何は余輩北海道民の最も注目すべきところなり。今回の大演習に於て屯田兵訓練の実を世人に示し、益々士気を鼓舞し戦術を鍛錬して、北海道の干城となり鉄壁となることを得ば、独り北海道民の幸のみならず真に国家の大幸なり。
(北海道毎日新聞 明治二十四年三月十七日付)

 大演習を見学した市民にはいろいろな意見があった。統率がとれていない、集団行動がにぶい、銃の持ち方、発射の仕方から兵士の歩き方まで不満を述べる向きもあったが、同紙は「世人動もすれば兵農分業主義を唱へ、屯田兵を以て軍事の役に立ざる如く思ふも、其実際に立入て見れば屯田兵却て近衛兵に勝るの技倆あり。ソハ去日の演習に於て已に実験せる処にして、其集散進退掛引の巧妙縦横なる為に、士官将校輩をして呆然たらしめたりと。蓋し軍人に最も必要なる要素は実に軍事思想に在り。而して此思想は必任義務の徴兵よりは、寧ろ志願の屯田兵に多し。」(同前 明治二十四年九月二日付)と報じ、平常の訓練の成果を称え、北海道で果たす軍事的役割を評価した。大方の見方がこのようであったと思われ、一般住民は兵役義務を屯田兵に肩替わりさせ、開拓就産に専念し得たことになる。
 屯田兵西南戦争日露戦争で多くの戦病死者を出し、兵村内の対立、手当金遅配上訴、積穀返還要求、警察との軋礫等、犠牲者は少なくなかった。特に前期兵村の兵役は長期にわたり、後期には士官として他兵村に赴き指導的役割を果たした意義は大きい。