明治十九年一月、北海道庁の設置によって、札幌農学校はその管轄となった。しかしすでに初等教育で記述したように、十八年金子堅太郎の提出した『北海道三県巡視復命書』によって、たとえば初等教育に関してもいたずらに高尚に流れすぎていることが批判されているが、農学校についても「其組織及ビ教科ノ課程、悉ク高尚ニ過ギ、開墾の実ニ暗シ」(新撰北海道史 第六巻)と、初等教育についてとほぼ同様の視点から批判し、もっとも北海道に適さざるものときめつけた。さらに同校は一四六万坪の土地と約一〇〇万坪の付属地を有していたのが、同年八月に生徒実習地として必要な二〇万坪を除き、墾成地約二〇万坪、荒蕪地約二〇〇万坪が勧業課所属となった。しかし二十年より農園面積は再び拡大し、二十四年頃には植物園もほぼ現在の地積を有するようになり、同窓会農園も設置された。
この時期に農学校の立場で活躍したのが、同校第一回卒業生で米国留学から帰国したばかりの佐藤昌介であった。佐藤は十九年十一月に「札幌農学校ノ組織改正ノ意見」を岩村長官に提出し、北海道開拓に農学校の必要であることを強調し、工学科の設置、農民となる者のために簡易な教育を施す機関の設置、本科に農政学・殖民学等の科目の新設など具体的な指針を提示し、これが容れられて教則等を大きく変更して同校は存続することとなった。
すなわち同年十二月に制定された札幌農学校官制第一条中「農工ニ関スル学術技芸ヲ教授スル所」と規定し、翌二十年三月の校則改正で、これまでの本科を廃して農業科と工業科をおきこれを本科とすること、予科を廃止して予備科を設置すること、簡易農業教育機関として修業年限二年の農業伝習科を設置することが定められた。また二十二年九月に屯田兵士官の養成を目的として兵学科が設置されたが、同科は結局一人の卒業者も出さずに廃止された。また兵学科設置の頃、屯田兵下士官を一年間で士官養成に必要な教育を行うこととしたが、これも二十五年に廃止された。
二十年に設置された予備科は一三歳以上を入学資格とし、修業年限を四年としたが、二十二年九月の校則改正により、修業年限五年の予科となり、一三歳以上、原則として高等小学校卒業とし、尋常中学校にほぼ相当するものとした。しかし二十六年から第一年級の募集を停止し、のち第四、五年級のみを残し、尋常中学校卒業生を入学させることとした。