札幌基督教会の教勢に最も影響を与えたのは、日本組合基督教会の札幌進出であったといわれる。札幌基督教会と組合教会とは、大島正健の牧師按手礼問題における新島襄の関与その後牧師を同志社卒業生から迎えるなどにより、関係を深くした。二十五年、組合教会の指導者の一人、海老名弾正が来道した際、札幌基督教会は北海道の伝道は超教派によってなされるべきだとの提案を海老名に行った。海老名はこれに賛成し、帰路仙台で東北学院長の押川方義(日本基督教会)と協議した。しかし押川の賛成は得られず、かえって海老名は札幌基督教会と組合教会が一致して伝道に当たることを提案し、札幌基督教会がこれを拒否するということがあった。
海老名弾正の来札の折、彼は札幌の組合教会員に対し、札幌での組合教会の伝道着手の予定がないので、なるべく札幌基督教会へ転会することを勧めた。ただ、組合教会員らは、札幌基督教会に聖書研究会がないところから、日曜日の午後、独自の聖書研究会を開くことにした。このとき参加者は、すでに二十余人を数えていた。
ところがアメリカン・ボード(当時はほぼ会衆派、組合教会系のミッションとなっていた)は二十八年、北海道伝道局を開設するため、宣教師W・コルテス(カーチス)と田中兎毛(とも)を派遣した。札幌基督教会は、組合教会の教会設立について、「(組合教会系の会員が)、遠慮ナク其望ム所ノ教会ニ籍ラルヽモ我教会ハ決シテ之レヲ拒マズ、喜ンデ応スベシ」(札幌基督教会日誌 第二巻)との態度を表明した。このため、札幌基督教会から数人が転籍し、これを含めて一七人の教会員によって、九月二十二日日本組合基督教会札幌講義所設立式を南一条西三丁目八番地裏通で挙げた。当初この教会は小さな集団であったが、翌二十九年、札幌組合基督教会を設立した。牧師は田中兎毛で、信徒には紙商の藤井太三郎・専蔵父子、印刷業の野沢小三郎、砂糖商の石田幸八、菓子商などを手がけた村田正一良、後には書店の中村信以(のぶしげ)、紙函業の竹原八兵衛などが加わって、商人の多い教会という特色を持った。
こうして札幌基督教会から教派の教会へ転会する人が多くなった。また、新しい求道者が教派の教会に移ったことも少なくなかった。札幌基督教会が札幌唯一のプロテスタント教会として保持していた合同教会としての特色が失われ、急速に教勢を低下させていった。二十八年から二十九年の同教会の状況を、同教会の教会報告は「要するに教勢不振の潮流は、昨年より本年に掛けて南方より流れ来れり、漸やく極まらんとするが如く、教会に於て最も之れを感ずるものは、礼拝出席者の減少と伝道心の衰弱なり」(札幌基督教会報告 第九号)と述べ、日曜日の朝礼拝出席者が二〇~五〇人ほどになった様相を振り返っている。三十年頃、礼拝出席者は日曜学校の教師以外には、青年・学生よりもむしろ婦人と「質実勤勉な商人」(創立弐拾五年記念札幌独立教会)が主で、それらの人びとによって教会が支えられていたという。
このように、札幌基督教会は他教派の進出に大いに影響を受けた。一方前述のように、日本の国家主義的風潮や建設草創期の札幌市民の宗教への無関心のなかで、キリスト教関係の諸活動がなされていった。いま一度その全容を概観しつつ、「沈静」から活発な伝道に転ずる明治三十三年頃までの様相を見ることとしたい。