道内でも冠婚葬祭は地域集落と密接に関わった形で行われた。
まず最初に「村規約」として明記されたものを、丘珠村を例に紹介する。同村で二十六年一月に定められた「村規約」中、第一〇条「村内に死者アリタル時ハ(七歳未満及ビ雇人寄宿人等ヲ除ク)弔祭料トシテ一戸ヨリ金参銭ツヽヲ拠シ喪家ニ贈ルモノトス 但当時現金ナキモノハ白米精麦小豆ヲ以テ換フル事ヲ得」とある。労力奉仕については、一一条の文面が「各組内ニ於テ凶災ニ羅リタルモノアルトキ」についての規定であって、これが「死者アリタル時」にも該当するかは不明である。しかし大正四年制定の「札幌郡札幌村大字丘珠部落規則」には、第一三条として「村規約」にほぼ該当する文面のあと、但書として組内に死者があった時の労働奉仕が規定されているから、実態としてやはりあったと思われる。
つぎに、集落を主体とした場合として山鼻村の伏見地区について述べたい。伏見地区は二十四年に人口増加し、かつ集落の「秩序成るに及び」、葬儀の際の各自救済方を次の文面で契約した。「一、契約と称し連盟者の家族死亡の際は米一升と金十銭を納むべし。二、死亡者ある時は近隣の人直ちに部落に通ずる事。三、葬儀に要する手伝は射的場を境とし上下に別ち各戸一名宛人夫を出す事。但必要に応じ部属の外より頼む事を得。四、契約人夫に小屋亦は隣家を借りて食事を給すること。五、会葬は各戸主之に列するを可とす。六、会葬者は妄りに忌家にて飲食の饗を受けざる事」(伏見史稿)。
このうち注目すべきは「四」で、おそらく「別火」の風俗のあることを示しているのであろう。かつて日本人にとって死はケガレでもあり、したがって喪家の火もケガレ、それで調理したものを飲食した者にもそれがうつると信じられていた。このため調理は隣家、またはそのための小屋を建てて行ったことが多い。しかしこの風俗も急速にすたれたらしく、『伏見史稿』(大正十四年発行)では、もはやその意味が不明のまま解説されている。
このほか、二十年頃、山口村に星置講が発足し、はじめは主として葬儀用であった(手稲の今昔)。葬式の時はイナキビ二合、米一合を持ち寄り、香典は二~五銭であった。
以上葬儀の互助について三つの例を紹介したが、規則であれ契約であれ講であれ、多くの地域でこのような組織があり、機能していたものと思われる。