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日赤及び篤志看護婦人会の活動

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 二十七年八月一日、日本が清国に宣戦布告をすると、日赤道支部は戦時準備の報告会を兼ねて社員の増募、拠金の完納等を協議する等活動が活発化した。八月十九日、篤志看護婦人会員中より戦時派遣看護婦志願者一五人を選抜して公立札幌病院で実地訓練をさせた。その一方で、臨時に札幌付近在住社員を集め戦時病院派遣や事業拡張方等を協議し、道内各地で「赤十字幻灯会」を開いた。また、札幌の大黒座では十一月二十二日、「赤十字演説会」と称して阿部宇之八、中野二郎、新渡戸稲造、佐藤昌介等がかわるがわる演壇に立ち、赤十字事業の理解をあおぐための演説を行い、聴衆千五、六百人に喚起をうながした。このような日赤活動の結果、社員増加には目ざましいものがあり、二十七年十二月末現在社員数は全道で三五〇〇余人に達した。
 篤志看護婦人会の看護婦人および医師の戦地派遣の議が出されたのは、二十八年二月に入ってからであった。医師四人、看護婦人二一人(永山臨時第七師団司令官夫人永山トメ、軍医正山上兼善夫人山上千代、蔵田ヒサ、石野シヅ、佐藤トラ、山田シカ、加納栄、相沢シゲ、木下タカ、小野ハル、伊藤キハ、本間サダ、森ミイ、村山ミス、飯塚ユキ、鳥畑チカ、伊藤マサノ、半沢ヤス、中村カメ、加藤ナカ、末木ステ)が決定し、二月二十四日白衣の制服姿の看護婦人等の送別会が催され、約五〇〇人が参集した。三月五日、永山トメを除いた二〇人は家族や北海女学校生徒、北海禁酒会青年会の奏する音楽に送られて札幌停車場から出発した。二〇人の看護婦人は、東京日赤本社病院(陸軍予備病院第三分院)に配属となり、六月二十三日解任となるまで約三カ月余勤務についた。いずれも札幌および近郊に住む当時の有名夫人・令嬢たちであった。
 看護婦人会では、二〇人を東京へ派遣する一方、会員をさらに募り、数組に分け札幌病院で看護法を学習させたり、支部において看護上の臨時復習や「恤兵」の講話を行った。
 七月十日、任務を終えて札幌に帰着した看護婦人たちは、日赤道支部社員一同はじめ女子小学校生徒、基督教会員、市内有志等七、八百人が出迎えるといった熱烈な歓迎を受けた。一行は人力車で日赤道支部までパレードを行った。
 日赤道支部では、十二月一日これまで養成してきた看護婦人の看護学修業証書授与式を行い、第一回、第二回合わせて五〇人に修行証書を授与した。そのなかには、東京日赤本社病院へ派遣されたもののほか、永山臨時第七師団司令官夫人トメ子、阿部宇之八夫人ツネ子、菊亭修季夫人、佐藤昌介夫人陽子等もいた。

写真-4 阿部ツネ修了証書(阿部家文書 道図)

 日清戦争後日赤道支部では、本格的看護婦養成を行うために模範看護婦生徒を募集して日赤本社で養成することにした。その資格は、二〇歳以上三〇歳以下、身体健康、単独にして家計の累なき者、高等小以上あるいは同等の学力のある者、修業年限三年、所定の年限・業務に従事しうる者等となっていた。しかし、実際には志願者が少なかったり、志願しても学力がおよばなかったり定員に満たなかったため、卒業後一〇円内外の給与が得られることや名誉が少なくないことなど宣伝に努める必要があった。結局二十九年四月試験の結果、江良イシ、松原コヨの二人が合格し、模範看護婦生徒として本社病院に派遣された。日赤道支部で本格的看護婦養成が開始されたのは三十年六月で、九人(うち四人が札幌出身)が看護婦養成所(北一西五、日赤道支部内)に入学し、三十二年六月初めて看護婦が誕生した。その一方看護人(男子)養成にも着手し、水害救助の際に出動させている。しかもその間の二十九年十二月には、それまで偕行社内に間借りしていた事務所も北一条西五丁目に新築移転され、日赤道支部の仕事は名実ともに軌道に乗りだした。