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短詩型文学

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 俳句については、二十二年十月頃、松本叟二郎など区内同好者によって、「正風の俳祖芭蕉の素志を継ぎ、親睦を専一とし、会員互に有益なる談話をなし、余興として俳諧を催ほす」(道毎日 二十二年十月十五日付)目的で有倫会が結成された。これからみれば、「談話」が主でむしろ作句は従であるといえる。同会はほどなく中絶したが、二十四年春に再開し、今度は選者を東京に求めており、かなり本格的な俳句結社となったものと思われる。
 二十三年三月には、有志者により毎月一回句会を開催することとした園友会の第一回句会が開催されたが、評者は函館の孤山堂無外となっている。無外は幕末福山に渡ったのち函館に移り、二十年から函館八幡宮主典となり、函館俳壇に君臨した人物である。
 このほか二十四年六月には薫風社、二十五年十一月には感吟社、二十七年一月には金蘭社という名の俳句結社の活動が伝えられている。
 短歌については、すでに五年に札幌に移り住んだ旧会津藩関係の結城国足が活動したが、本編の時期に至っても、今のところ短歌結社については二十五年一月に白野札幌神社宮司ほか二十数人が札幌和歌会を興し、作品を東京に送り、「宮内省御歌掛へ検点を乞ふ筈」(道毎日 二十五年一月二十四日付)と伝えられている程度である。
 漢詩については、前編に記述した豊水吟社がこの時期も引き続き活動しており、二十六年二月の月次会は欠席者が多いものの六人が集まったことが記されている(道毎日 二十六年二月十五日付)。
 このほか、この時期発行された雑誌類のいくつかに、かなりの数の短詩型の作品が掲載されている。代表的なものを挙げると一つは『北海道教育(会)雑誌』で、この時期多く眼につくのは札幌師範学校教諭の大村益荒(縈山)が漢詩を中心に多くの作品を掲載し、二十九年札幌師範学校に赴任した石森和男にも短歌を中心にかなりの作品がみられ、さらに数は少ないが札幌神社宮司の白野夏雲の漢詩、短歌もみられる。
 また二十五年に札幌農学校予科生徒によって結成された学芸会の機関雑誌として同年五月に創刊された『蕙林』も、創刊から「文芸」欄を設けて多くの作品を掲載した。内容は短歌、漢詩等も多いが、当時新体詩とよばれたものもある程度あり、中には「夕立(新体)」、「夏月(新体)」など、詩のタイトルにそれを明記したものもあった。さらに若干ではあるが翻訳とみられる詩もあって、『蕙林』は新しい文学を札幌に持ち込む役割をある程度果たしたようである。このほか『ふじ』三号によれば、この時期札幌で創刊された文芸雑誌は『雪花渓』(二十六年三月)、『愛衣文学』(二十七年六月)、『学友会雑誌』(札幌中学校、二十九年十一月)、『白雪』(牛島滕六、三十年)などがあった。