札幌に所在する司法機関として裁判所、監獄をあげることができる。区制期にあって大通西一二丁目以西を司法地区として造成したこと、控訴院誘致に成功したことが特筆されよう。
明治十五年札幌に治安裁判所が設置されたが、二十三年札幌区裁判所と改称し、石狩、胆振の二カ国を管轄してきた。旭川、室蘭に各区裁判所を増設することになり、三十三年札幌区裁判所の管轄区域は、札幌区、札幌郡、浜益郡、厚田郡、石狩郡、夕張郡、樺戸郡のうち月形村、空知郡のうち市来知、幌内、沼貝、幌向、幾春別、岩見沢、栗沢の各村、千歳郡にせばまった。治安裁判所と同年に発足した始審裁判所も二十三年に札幌地方裁判所と改称し、函館、根室地方裁判所が全道を三分して管轄した。札幌地方裁判所の管轄は石狩、日高、天塩の三カ国と後志、胆振、北見国の一部であり、札幌区裁判所はその管下に含まれる。
区裁判所、地方裁判所は現中央区北二条西三丁目の同一構内にあったが、大火類焼後北三条西三丁目に移庁した。その敷地は札幌駅前通に面して多数の職員住宅もあり、周辺が官公署、会社事務所、商店、旅館等の集中する場所だったために、裁判所と住宅を他地区に移してここを再開発しようとする動きが区会を中心に広まった。移転先として白羽の矢をたてたのは西一〇丁目以西の陸軍省所管の旧練兵場用地である。これを区に払い下げてもらい、道路等を整備して一部を司法省に譲渡し、そこに司法機関が集中する地区を造成しようとした。明治四十二年一月の区会における村田不二三の建議を受け、区では内務省、司法省、陸軍省と折衝を重ねた。同年八月岡部司法大臣がこの用地を視察し、区会、弁護士会等の陳情を受け、実現に向けて前進した。
「現在札幌区、地方裁判所並附属官舎等ノ位地ハ、本区枢要ノ地域ニ介立シ自然区ノ発達ヲ阻害スルモノアルヲ以テ、旧練兵場タリシ区有地内適当ノ地点ニ移転セラレンコトヲ希望シ、区会議長ヨリ主務省ヘ意見ヲ上申セラレタリ。其ノ後、司法大臣ノ来札ニ当リ親敷実地ノ視察ヲ要求シ、又其ノ実行上ニ関シテハ数回当路ト交渉ヲ重ネツヽアルヲ以テ、或ハ近キ将来ニ於テ本区ノ希望ヲ遂成スルニ至ルヘキ歟」(札幌区事務報告 自明治四十一年十月至四十二年九月)。こうして裁判所と職員住宅の移転は明治四十五年に完了し、それに隣接して札幌監獄出張所も移され、大通西一二丁目から一四丁目にかけて司法地区が形成されたのである。
そこに、大正十年十二月十五日控訴院が開庁し、司法地区の機能を一段と充実させた。函館にあった控訴院を札幌に移すか、新たに増設するかの議論は明治二十年代末に起きた。「司法省にては函館控訴院を当区に移転するか、或は新に設置せられんとの議ありて、目下調査中なり」(道毎日 明29・3・27)と報じられたが、三十八年樺太をも函館で所管するにいたって、いよいよ移転の必要が説かれるようになった。「函館、札幌と隨分啀み合った揚句」(北タイ 大10・12・15)、札幌地方裁判所内を仮庁舎とする移庁が実現したのである。その独自庁舎が大通西一三丁目に新築されたのは大正十五年であった。
札幌監獄は明治十三年苗穂村に建設され、のち道庁、内務省が所管して監獄署と呼んだが、三十六年司法省の所管となって札幌監獄と改称、札幌地方裁判所と同一区域を管轄地とした。三十二年内務省監獄局長大久保利武が巡察した頃、内部に職員服務の不公平、物品購買払下の不都合など〝浮説〟が流れ、翌年にかけて改革がなされた。これを本監とする札幌区出張所の起源は古く、札幌本府建設着手の明治三、四年に開拓使によって設けられた牢屋にまでさかのぼるといわれている。八年、現中央区北六条東二丁目に獄舎を新築移転したが、さらに苗穂村の本監内に移り、その施設を衛戌監獄に充用したことがある。三十六年の改正で再び北六条に戻ったが、司法地区造成にともないその一角に移設された。