四十三年一月の区会で、青木区長は施政方針演説を行った。その中で「都市ノ生存上最モ必要ノ経営ニシテ其健康ヲ保全シ其福祉ヲ増進スル上ニ於テ換言スレバ飲料水ノ不良ニ生スル疾疫ヲ防止シ為ニ住民ノ生命財産ニ蒙ル損害ヲ減滅シ併セテ敷設ニ待タサルヘカラス是ヲ以テ内外ノ先輩ノ都市競フテ之カ経営ニ力ヲ効スハ本職ノ喋々ヲ待サルナリ」(区会決議録 明43)として上水道を敷設する方針を示した。
その考えに基づいて、四十三年度予算に上下水道調査費が補正予算として計上された。そして道庁の土井技師に敷設計画の作成を任せた。土井技師は、東京市水道顧問の中嶋博士と相談した(北タイ 明43・6・7)。そして七月、小樽区の水道調査に来道する中嶋博士を札幌へ招いて、水源地調査などを行った(北タイ 明43・6・26、7・15など)。九月臨時水道調査委員が設置された(区会決議録 明43、区例規定関係書類 自明治四十二年至大正三年)。一方、区会議員の阿由葉宗三郎らは区会などで水道敷設尚早論を主張し、有志で水道研究会を組織して水道敷設の反対をとなえた(北タイ 明43・10・12~14など多数)。青木区長は、四十四年一月二十日の区会で、「水道設計ハ予定ノ如ク其経済調査モ着々進行中ニ在リ」(北タイ 明44・1・21)と演説している。水道敷設計画は、東宮行啓や水害などで遅れた(小樽新聞 明44・7・8、北タイ 明44・10・10)が、四十四年十二月完成した(北タイ 明44・12・19)。その計画では、明治六十一年の札幌区人口を一五万人と想定し、予算総額は一五六万円、豊平川からの取入口は平岸村の俗称十五嶋(現十五島公園辺り)とし、豊平川右岸を導水し、石山付近でプラット式鉄橋で渡河し、藻岩村の区有地に沈殿池、円山村感化院付近に配水池を設置して、区内へ給水する計画であった。また山鼻町と豊平町については第二期計画に譲ることにした(小樽新聞 明44・12・22~24、26)。
その後この水道敷設計画の詳しい経緯は不明だが、「大反対に逢ひて其侭立消えとなり」(小樽新聞 大3・4・13)、大正四年一月臨時水道調査委員の調査事項の改正で、敷設順序方法やその財政計画に関することが調査事項となり、やっと八年六月に上水道工事費予算が区会で可決された。それでは「水利使用許可ノ翌年ヨリ四ヶ年継続事業トシテ施設スルモノトス」(区会関係書類 大8)となっていた。それで、水道調査が「予定ノ計画ニ基キ」(札幌区事務報告 自大正七年十月至同八年九月)はじめられた。しかし実際の事業開始は昭和に入ってからである。