茂辺地製品を札幌で使うことは価格の面の問題もあった。御金蔵、書籍蔵の設計を担当した御用掛安達喜幸の計画時の見積書によれば、茂辺地製造所渡しのレンガの単価は一本一銭である。だが茂辺地製造所から札幌工事現場までの輸送費は一本四銭一厘弱になるとしている(諸手控入 安達 北大図)。
札幌本庁は当初、札幌でレンガを生産したいと考えていた。明治五年四月、札幌近郊の篠路村揚場付近川筋、豊平川大橋上流東岸、円山村札幌神社鳥居前の粘土を茂辺地製造所へ送り、レンガ製造原土としての適性調査を行う。だが結果は不合格であった(開拓使公文録 道文五五〇二)。さらに十二年、江別赤土、江別青土、幌向青土について、再び茂辺地煉化石製造所で適性調査を行う。幌向青石は発色が白い点に難があるが最良。江別赤土はこれに次ぐ品質。江別赤石は不良と判定される(雑書留 道文三三一五)。この十二年の調査からは、官営での企業化へとは進展しなかった。だが江別(野幌)がレンガ生産適地として注目させる端緒となったものとみられる。
官側の動きに前後して、明治十年工藤宇三郎が浦河通(現大通以南の東二丁目通)でレンガの製造を開始する。開拓使工業局に一万一〇〇〇本を納入と記録されているが、宇三郎が提出した製造見積書によれば、月寒の粘土と茨戸の砂を原料とある。また、生産能力は年産二五万本とするが、この工場についてはその後の官の統計書には生産状況が現われない。短命の工場であったようである。いずれにしても札幌地方のレンガ工場の第一号である。
開拓使札幌本庁は十一年以降、黒田長官の先導により、ロシア式校倉造建築(ログハウス)とロシア式暖炉(ペチカ)、料理かまどの築造技術の導入・普及とを図る。レンガを使用する後者のペチカと料理かまどの築造例を『事業報告』第二編の「家屋表」から拾うと、桧山通学校(藻岩学校、現南三西七)露国形暖炉、雨竜通露国風丸太組官舎の暖炉、勇払郡美々缶詰所付属角組生徒舎の暖炉、麦酒醸造所竈煙筒(以上十三年)、豊平館地階料理竈(十四年)、篠津太丸太組屯田兵屋暖炉(十五年)となっている。
十三年十二月、ロシアから築炉士一人を一年間雇用し、ペチカ、料理かまどの築造法の伝習を受ける。前掲の事例の一部はロシア人職工の施工とみることができる。「営繕報告書」(工業課報告 道文七一四一)は、ロシア人職工が関与したとするペチカ、料理かまどなど次のような六種の仕様図、略図を掲げる。「学校暖炉露国形仕様、豊平館料理竈新築仕様、篠津太兵屋暖炉付竈仕様、円形暖炉築立仕様、露国形両口暖炉新築仕様、露国形竈仕様」。開拓使は当時、これらのレンガで築造するペチカ、料理かまどを「無比ノ良法」と考え、アメリカ風のストーブよりも高く評価していた。『事業報告』第二編〔家屋〕の冒頭に、同使建築は「概ネ皆米露ノ制ニ則リ防寒ヲ主トス」と述べ、「殊ニ露国風暖炉ノ如キハ薪ヲ用ル少ク火気ヲ保ツコト久シ実ニ無比ノ良法ト謂ヘシ」とたたえている。
いずれにしても開拓使時代のこれらのペチカ、料理かまどのレンガは、同時期に茂辺地のレンガを回送した記録は見当らないので、豊平の工藤宇三郎製造のレンガと解すべきもののようである。なお十二年時点の茂辺地製造所のレンガの品質は、工部省が「最良」と評価するほどに向上していた(開拓使第四期報告書)。またペチカ、料理かまどに付設される煙突の大部分とペチカなどの基礎には、石材を使用したことが前掲の仕様書、建築の外形写真から明らかになっている。