二級町村制の施行に際し、同じ屯田兵村であった篠路兵村が篠路村から分割して編入され、琴似村の広袤は東西一里二二町(約六・三キロメートル)、南北三里三四町(約一五・五キロメートル)、面積は約三・五方里(約五三・九平方キロメートル)となり南北に細長い村域となっていた。
大字は琴似村、発寒村、篠路村からなり、村内の行政区として二四部が設置された。ただそれらの正確な部名が伝えられていないために、推定すると以下の二四部であったようである。〔大字琴似村〕川添、二十四軒、山手、十二軒、小別沢、盤ノ沢、中ノ沢、八軒、牧場、新琴似南一番通、同二番通、同三番通、同四番通、同五番通、同六番通、部有地。〔大字発寒村〕南発寒、北発寒、西発寒。〔大字篠路村〕北一番通、北二番通、北三番通、北四番通、北五番通。
琴似村も当初の主産業は農業であった。三十六年では琴似、発寒の両村合わせて四四七八町の地積をもち、地目別では畑地二八六一町、林地一一三六町であった。畑地は実際に耕作されているのは一二二〇町であり、いまだ未耕地が二八六三町も存在していた(北海道石狩国札幌郡琴似発寒村是調査)。未耕地の大部分は発寒村の鉄道線路の北部に広がっていた低湿地、泥炭地であり、村の発展の障害ともなっていたのである。
農作物は三十六年では稲(一一五町)、麦類(三五七町)、豆類(七一〇町)、亜麻(一一〇町)、蔬菜(一六七町)が主要作物となっていた。麦類はビール工場、亜麻は製麻工場に納入され、蔬菜は札幌区へ出されており、都市近郊型の農業形態であった。この傾向は大正期に入っても変わらなかったが、発寒村や新琴似の低湿地、泥炭地の土地改良により燕麦・牧草栽培が飛躍的に伸びていた。大正九年には四七八〇町歩の農地を有し豊平町に次ぐ面積であったが、特に目立って多いのが燕麦(二〇三二町)であり、ほぼ半数をしめるほどであった。蔬菜類では篠路、新琴似の大根が有名であった。
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写真-2 琴似村の燕麦の収穫風景 同様の光景が近郊各村でみられた(大正元年) |