手稲村は明治三十五年四月一日に上手稲村、下手稲村、山口村の三村を合わせて二級町村制が施行されて成立した。村内は旧村を継ぐ三大字に編成された。四十二年の戸数・人口は上手稲村が二三八戸一三七六人、下手稲村が二八二戸一六七五人、山口村が九七戸六二一人であった(手稲村史原稿)。上手稲村と山口村が純農村であったのに対し、下手稲村には停車場、村役場がある軽川に市街が開けており、前田農場、北海道造林会社、日本石油製油所などの事務所・施設も存在していた。
手稲村の広袤は東西三里七町(約一一・四キロメートル)、南北三里二四丁(約一四・四キロメートル)、面積約七・九方里(約一二一・七平方キロメートル)あり、札幌区の周辺村の中では豊平村(町)に次ぐ面積を有していた。南部に手稲連峰があり、約四割が山林で占められていた。行政区域は七部に分かれていたが、大字上手稲村は上手稲・西野、大字下手稲村は軽川・三樽別・下手稲星置、大字山口村は山口・星置の各字が該当するとみられる。