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「円山村独立陳情書」

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 藻岩村の山鼻地区の札幌区編入後の問題となるのは、藻岩村の存立及び円山村の帰属問題であった(北タイ 明42・10・4)。この問題の詳細は不明であるが、山鼻村の枢要部分が抜けたあとの藻岩村は戸数・人口の激減が予測されていた。そのために藻岩村の自治的な存立が成り立ち得るのか、また藻岩村が廃村となった場合、どの村に帰属させるのかという問題であったようである。これに対して円山村では、四十二年十月に上田善七、土田金次郎を総代として「藻岩村境界変更に付大字円山村独立村に御詮議相成度義に付陳情書」を提出し、独立して一村を形成することを請願した(北タイ 明42・10・7)。
 これによると、円山村では札幌区の拡大に際し、札幌区への編入を希望していたがかなえられない見込である。一方、ともに藻岩村を形成していた山鼻村では兵村部が編入されることになっている。この結果、「万々一にも他村に附属せしめらるゝ事に相成候へば村民の不便不利実に鮮少にあらざる」とし、編入が除外された山鼻村の八垂別・白川などとともに他村への付属を拒み、円山村だけで独立して一村を形成することを請願したものであった。はたして山鼻兵村の札幌区編入にともない、藻岩村の他村付属の動きがあったかどうかについては、いま審らかにすることはできないが、円山村では一村を形成するだけの「自治経営」に自信があったようである。
抑も円山村は本道に於ける最古の村落にして、則ち明治三年の創設に係り東西僅かに十五町に出入するに過ぎざるも、南北一里二十町余にして面積約九百町歩を有し、墾成耕地は四百二十余町歩有之、外に官幣大社札幌神社境内あり御料養樹園あり、其他は官林にして尚ほ官林中には耕牧に適する良好の土地あり、風景絶美にして地味肥沃に有之、大農的経営すべき地積なしと雖も札幌市街に接近するを以て、蔬菜並に果実類は同市街人の需要に供する唯一の産地なるに依り、園芸作物に属するが故に大地積を要せず、小地積を深く耕し厚く培し以て多大の収穫を見る所に有之候。

 ここでは村の歴史、面積、経済、村民の生計などのあらゆる面から、円山村が一村として「独立」できることを訴えている。しかしながらこの問題は藻岩村の存続、ならびに円山への役場移転により解決をみることになった。
 先の「陳情書」では「円山村は本道に於ける最古の村落」と歴史の古さを訴えていたが、円山村は明治三年の山形県からの庚午移民の入植により開かれ、それ以来、後続移民も山形県出身者を主としていた。明治四十五年の在籍者二〇九戸のうち、山形県出身は半数以上の一〇八戸にも及んでいた。そのせいもあってか円山村は結束力の固いところであったといえる。『札幌郡藻岩村大字円山村部落』(明44)も、「部落住民協同状況ノ緝睦」として以下のように述べている。
部落民ノ親密緝睦ナルコト一家兄弟モ啻ナラズ、冠婚葬祭ニ相慶弔スルハ勿論不慮ノ災害又ハ疾病アルニ会セハ、相倶ニ誠意ヲ以テ救護ニ尽力スルヲ常トセリ。或ハ耕作ノ改良、種子ノ撰択ニ至ルマテ相互ニ研究シテ其善良ナルヲ勧メ、劣悪ナルヲ退クル等一致協同ノ心ニ富ミ、意志堅実ナルハ実ニ本村ノ美風トスル所タリ。

 このような「一致協同」の「美風」が支えとなって、円山村の「独立」が叫ばれたといえよう。