ビューア該当ページ

社会主義研究

478 ~ 479 / 915ページ
 日露戦争後の札幌には三つの社会主義研究会があった。ひとつは、みずから社会主義者と称した土岐孝太郎を中心とする研究会であった。土岐は後にキリスト教に入信したが、この頃は豪傑肌の新聞記者であり、キリスト教社会主義者とは一線を画していた。だが、当時札幌のキリスト教牧師の一部が唱えていた、キリスト教と社会主義は衝突するものだという説に反対し、「社会主義は経済問題に関する一主義であり、キリスト教は生命問題に関する一教義で、範疇がことなり、衝突しない。両者とも平等観の上に立つものであるから、共通の要素をもっており、相容れないということはない」と主張した(基督教と社会主義 北タイ 明38・11・3)。
 土岐の研究会には、のちに中国問題の研究者となる橘撲も一青年記者として参加していた。
 もうひとつは、東北帝国大学農科大学社会主義研究会であった。三十三年に札幌農学校に入学した逢坂信忢は、キリスト教社会主義者で、同郷の友人真島政吉とともにキリスト教社会主義の伝道にあたっていたが、一時病を得て帰郷していた。その間に、真島政吉が銭函海岸で溺死し、農学校における社会主義研究は挫折してしまった。
 復学した逢坂は、大石泰蔵とともに社会主義研究会を組織した。有島武郎に指導を仰ぎ、かなりの学生、生徒を組織することができた。道庁技師の蛎崎知次郎や鉄道に勤めていた原久米太郎などの社会人も加わっていた。

写真-12 逢坂信忢の作成したキリスト教社会主義の宣伝ビラ

 さらに日本社会党の結社禁止後、札幌に戻ってきた竹内余所次郎も研究会を組織した。成田与助が協力者であった。教職義務年限が過ぎて札幌に戻っていた山田ミツは、竹内から社会学の勉強を勧められた。本を読むことより、代用教員として勤めていた東小学校の近くの細民街や製麻会社の女工の生活の方に関心が向いた。たまたま教員の妻になった同級生が、封建的な家庭の家風に耐え切れず自殺するという事件が起こり、さらに、同僚と恋愛関係になったため教職を解雇された同級生が発狂するという事件が続いたため、ミツは同窓生に団結、相互扶助を呼びかけた。
 学理的に社会主義を研究しているだけの人々にも迫害の手がのびた。四十一年一月二十二日、札幌中学校二年生のクラス会で、前田則三(前田英吉の三男)が日頃研究している社会主義論を発表した。同級生の阿部謙夫らは別に過激とも感じなかったが、尾原亮太郎校長は、不穏な言動を行ったとして前田を退学処分にした。生徒たちはストライキを行って処分の不当を訴えた。前田は復学を許されず、北海中学校に転校しなければならなかった。