① 札幌の熊祭り 今十一日正午十二時当区片岡栄吉氏の発起にて、豊平橋手前北側に於て熊祭を執行する由、珍しきものなれば見物に出掛くる人多かるべし。
(北タイ 明39・1・11)
② 札幌の熊祭 豊平村の安沢登なるものゝ企てにて(中略)、一昨正午より此度は兎も角も無事演了したるが、其模様を記るせば至極簡単のものにて、場の一隅に祭壇を作り御幣を立てアイヌ三名弓を持ち或は狐の首の彫刻物を前額に結びメノコ四人盛装して鶴の踊外二三の踊をなし、其間には屢酒を神に捧げ後熊を嬲りて殊更に激怒せしめ、遂にブシ矢一発を胸部に射込みて殺し之にて有耶無耶の裡に終りを告げたるが、事実熊祭はアイヌの大祭にて斯く簡略に終るべきものならず。発起者の横着なる為め可成手数を省きたる故にして、尚前回中止の際七銭の入場料を取りたる人々より更に三銭を徴収したるは不都合なる仕方と云ふべし。(小樽新聞 明39・1・22)
③ 熊祭り 札幌区南三条東五丁目金原恵吉は開期中(編注・北海道物産共進会)遊園地銀行会社運動場内広場に於て毎日熊祭りを行ふ筈にて協賛会へ許可を願出でたるが、熊は十一頭、アイヌ十四名にて来賓に対しては特に入場料の割引を為す筈なりと。(小樽新聞 明39・9・8)
④ 大通りの熊祭り/型ばかりで見物はガヤ/\ 昨日午前十一時より大通り西二丁目角に催うせし(中略)、熊祭りの一団は日高平取及び沙流より半数宛総勢男六名女八名祭具一式を携帯して乗込み、長髯滲々たるチャ/\は晴の陣羽織を着流し太刀を吊り、女は玉鏡などを頸より胸に掛け座に居並びてカムイノミを始め、牲は三尺計りの美しき羆にて好く馴れ幣束立たる柱の周囲にグル/\舞へり、メノコ共は細き声を揚げて兎踊り鳥踊り種蒔踊などあり、熊の周囲を立廻り終りに附子矢にて咽喉を射る筈なりしが(中略)、到頭殺さず型だけを行ひたる観衆は今かくと待てど何時迄も熊の血が出ずソイ/\言へど埒明かざるに「屠殺場でないから警察側で許しません」と巧みなる弁解を聞き五千に近き群衆の口々に呟きつつ散じたるは午後二時過ぎなりき。(北タイ 大2・1・27)
⑤ アイヌの熊祭 本日より札幌遊園地興業指定地に於て札幌区岩淵軍三郎、八十田宗吉両人主催にて愛奴熊祭式及愛奴手踊追分節等を行ふ由出場アイヌは酋長ウレンパウク外三十余人なり。(小樽新聞 大7・8・5)
これらの新聞記事を通して、次のような問題が浮かび上がってくる。第一に、本巻が対象とする時期のイオマンテは、興業的なそれが増加していることはすでに指摘されているが(小川正人 イオマンテの近代史)、札幌区でのイオマンテも和人が主催し、一定の入場料を徴収する区民向けの興業として挙行され、アイヌ民族の正規の儀礼とは全く無関係であった。イオマンテは本来、真冬の儀礼である。しかし、③と⑤のイオマンテにいたってはそれぞれ八~九月に実施しているように、興業以外の何物でもない。イオマンテは、開拓使が明治五年にアイヌ民族の外見上顕著な慣習を禁止する施策の一環として廃止を布達しているが(同前)、その後の各地のコタンでのイオマンテの挙行状況を見ると、それは全く効力を持たなかった。興業としてのイオマンテは、札幌県が「近来旧土人ヲ他道府県へ誘引シ(中略)熊祭リ等ノ所業ヲ為サシムルモノ往々之アリ」(明治十七年札幌県布令全書)と指摘していることから考えて、明治十年代にはすでに挙行されていたといえよう。これは明治初年以来、開拓使のアイヌ民族の生活基盤を侵食した諸政策と不可分の関係にあることはいうまでもない。アイヌ民族は生活の糧を得るために、その儀礼すらも商品化を余儀なくされたのである。
第二に、札幌区でのイオマンテは「型ばかり」という批判もあったように極めて粗略で、正規のそれとは大きな隔たりがあった。これはもちろんその興業的性格に起因するものであるが、見物客のアイヌ民族への認識を歪め、差別と偏見を助長する危険性を内在していた。これらのイオマンテを見物した区民の反応を直接示す史料は、管見の限りでは見当らない。しかし、大正二年のイオマンテは「各学校の男女学生児童には北海道の特有たる斯の熊祭りは見学の一助たる」(北タイ 大2・1・25)と宣伝され、多くの小学生が見学したことは想像に難くない。こうしたイオマンテと同時期の国定第二期(明43~大6年度)の国語教科書『尋常小学読本』所収の「あいぬの風俗」(巻十)の教材内容を重ね合わせると、札幌の小学生に対して、自然と共存し豊かな文化を育むアイヌ民族の姿ではなく、その存在と生活・文化を「未開・野蛮」視する「土人」イメージを扶植していったといえよう(竹ヶ原幸朗 近代教科書の中の〈アイヌ〉)。
こうしたイオマンテとは別に、札幌区では明治四十年九月、牧野伸顕(文部大臣)を主賓として開催された「〔札幌農科〕大学開校祝賀園遊会」でも「旧土人の踊」=リムセが単独で披露された(北タイ 明40・9・13)。