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あわれなる留守家族の実情

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 出征兵士を送り出した留守家族のなかには、一家の働き手を失ったために生活の手立てがなく、明日の生計の維持すら覚つかない困窮者が次第に目立ってきた。当時の『北海タイムス』からいくつかの例を要約して掲げてみよう。
①札幌区南四東四木挽業風間某は、小樽守備隊として出征したため、父四五歳、母三八歳、妹一三、一一、三歳、弟六歳の六人家族が残された。入営前もようやく一家の糊口をしのぐほどでいたって貧しく、入営後は、父が札幌機械製造場の雇となり、日給四五銭を得て専心働いていた。ところが、不幸にも昨年六月以来結核に罹り、昨今は起臥さえ自由にならない始末で、収入金は一厘もなく家計はますます困難を来たした。そして母は幼児を背負い、夫を看護しながら日々青物の行商をし、僅かに一日一〇銭内外の収入で、これでは一家六人の糊口もしのげずまさに餓死せんばかりのありさまである。
(北タイ 明37・7・26)
②札幌区南一西六歩兵上等兵森某は、札幌郵便局の雇であったが、三十七年二月中召集され、あとには妻二六歳、長女六歳が残された、以来、何らの資産もない妻はすぐに生活に困り、おまけに脚気と婦人病にかかったため病気治療も受けねばならず、一層生計維持上困難に陥った。
(北タイ 明37・7・26)
③札幌郡豊平村寄留後備上等兵山口某は、妻をはじめ四人の家族を残して、八月中召集され、目下上川の大隊で軍務に服している。入営前、原籍地の篠路村に少しばかりの土地家屋を所有していたが、瘠地のため収益がなく他人に貸し付け、自分は豊平尋常高等小学校に奉職し生計を営んでいたが、入営後は蓄財もなく、妻が病母を看護し、幼児を養育しながら昼夜の賃仕事で僅かな賃金を得ている有様である。
(北タイ 明37・11・3)
④札幌区南六西二大塚某は、三十七年八月中、補充兵として召集され、あとには母親のほか、妻四一歳、長女二五歳、長男二二歳、次男一九歳、三男一七歳、四男一五歳、五男一三歳、次女一一歳、三女七歳、長女の子一人の計一一人が残された。父親は野幌兵村の屯田兵であったが事故死し、おまけに土地家屋も他人の保証人になったがために全財産を失い、一家は前年札幌区に移転してきたばかりであった。このため入営前から母親は工場の飯炊きに住み込み、長女は子供を連れて病院の看護婦となり、三男は肉屋に奉公、四男は活版工、五男は鉄工場の職工となり母の手助けをしていたが、次男は長らく脚気にかかり、起臥も自由でないほどで、医師を頼む費用もないところから次女が病人の看護と飯炊きをし、細々と生計を立てていた。もともと生計困難なところへ、長男の出征によりますます悲境を見るに堪えないところから、三男の雇主が見るに見かねて現在の借家に無賃で住まわせてくれたという次第であった。ところが、十一月中に大塚方でカンテラの火から、看病をして留守を守っていた次女が大火傷を負ってしまい、とにかく札幌病院へ入院させたが、火傷は余程の重傷であるばかりでなく、病院の費用を支払うあてもないといった進退極まりない状態である。
(北タイ 明37・12・3)

 こうした留守家族の姿が各所で見聞された。そして新聞は、こうしたあわれな軍人家族の惨状を余すところなく同情を込めて報道した。これをみた読者たちからは、直ちに反応があった。北海タイムス社を通じて、一円二円という具合に「恵み金」を寄せてきた。事実、④に紹介した大塚某の家族へは十二月二十二日現在九六円三四銭が寄せられた(北タイ 明37・12・22)し、戦地からも陸軍少佐白瀬矗が「恵み金」を寄せてきた(北タイ 明37・12・28)。
 こうした留守家族の惨状は、兵士の戦闘意欲を鈍らせることとなるだけに、国家にとっても重大事であったはずである。しかし、その対策は遅いばかりか、きわめて限定された人びとを救護するにとどまっていた。