戦争は市民の台所を直撃したばかりでなく、人びとを戦争協力体制へと引きずり込んでいった。前述したように国債の応募から出征軍人保護を目的とした諸組織が網の目のように張りめぐらされ、大人から子供までが戦争の熱気でおおわれた。一般の人びとは、戦勝が伝えられるなかで、高まった熱狂に酔いしれ、冷静さを失っていった。
北海道庁では開戦五カ月後の七月、「戦争影響調」を行った。それには次のようなことが報告されていた。
札幌区の部
△農産物 農産物にして重なる穀菽類の価格は概して影響を蒙らざるものゝ如し然れとも苹果は近年浦塩の輸出品なるに時局発生前の出荷に係る分まで未だ取引を了せざる中同地方への航海全く杜絶し止を得ず京坂地方へ仕向けて捨て売りを為せしがため仲買商は何れも多くの損害を蒙らざるものなし
△諸工業 重要工業の内木材挽割は火災の為め小樽より製麻会社織物等陸海軍より多くの需用ありたる為め反物製品増加の必要を感ぜし状況なるが其他は総て此種の好影響あるを見ず而して海上運賃騰貴せしに拘らず売買相場には格別の変動なきが如し又職工其他労働者は官民間事業緊縮に依り著るしく其需用を減じ随て工賃は一割乃至二割の低落を告げたるが如し
△木材類 鉄道建築材にては韓国鉄道用枕木需用の為め幾分の活勢を帯ひたり本道内需用の木材価格は一割以内低落し売行きに於ては著しき変動を来さず畢竟或個所は製材減せしも又或方面にて製品増加し結局例年と大差なきものゝ如し
△金融及商業 商取引金融金利等は官民事業緊縮に尋て国債応募等の関係に依り取引及金融とも極めて不活発なり然れども金利の高低に就ては更に影響あるを見ず燕麦牧草は馬糧として大騰貴を来し又地鉄も多少騰貴せしが其他に格別の変動なく諸物価は次第に低落の趨勢に向ひつゝあり
△農産物 農産物にして重なる穀菽類の価格は概して影響を蒙らざるものゝ如し然れとも苹果は近年浦塩の輸出品なるに時局発生前の出荷に係る分まで未だ取引を了せざる中同地方への航海全く杜絶し止を得ず京坂地方へ仕向けて捨て売りを為せしがため仲買商は何れも多くの損害を蒙らざるものなし
△諸工業 重要工業の内木材挽割は火災の為め小樽より製麻会社織物等陸海軍より多くの需用ありたる為め反物製品増加の必要を感ぜし状況なるが其他は総て此種の好影響あるを見ず而して海上運賃騰貴せしに拘らず売買相場には格別の変動なきが如し又職工其他労働者は官民間事業緊縮に依り著るしく其需用を減じ随て工賃は一割乃至二割の低落を告げたるが如し
△木材類 鉄道建築材にては韓国鉄道用枕木需用の為め幾分の活勢を帯ひたり本道内需用の木材価格は一割以内低落し売行きに於ては著しき変動を来さず畢竟或個所は製材減せしも又或方面にて製品増加し結局例年と大差なきものゝ如し
△金融及商業 商取引金融金利等は官民事業緊縮に尋て国債応募等の関係に依り取引及金融とも極めて不活発なり然れども金利の高低に就ては更に影響あるを見ず燕麦牧草は馬糧として大騰貴を来し又地鉄も多少騰貴せしが其他に格別の変動なく諸物価は次第に低落の趨勢に向ひつゝあり
(北タイ 明37・7・16)
このように、輸出品目であるリンゴが航海途絶のために京阪地方へ捨値同然で取引され、損害をこうむったり、あるいはまた製麻会社以外の工場は、事業緊縮により需要が減り、工賃も低落傾向にあった。
戦争がもたらした不景気風は、出征軍人家族をはじめ税金滞納者を多く出した。たとえば、札幌区北七西二の吉久某は夫に早くに死別され、九人の子供を女手一つで育ててきたが、三人の息子が召集されてしまった。あとに残された四男と五男とが炭鉱会社につとめたり魚売りをして生計を立てていたが、区税二五、六銭を滞納したため財産差押えの危機に瀕した。実際生活困難な実情を涙ながらに訴えたところ、差押え処分は一時中止となったという(北タイ 明37・9・17)。
また、借家住まいの軍人家族は、一円七〇銭もの家賃を支払うことができずに家主に「無賃」に、あるいは値引きしてもらったりし、その家主は「美挙」と褒めそやされた(北タイ 明37・8・13)。さらに、出征軍人の子弟に限り授業料免除になった(北タイ 明37・10・2)。
結局日露戦争での歩兵第二五聯隊の戦死・戦病死者は一〇四〇人余にものぼり(『近代民衆の記録 8兵士』によると北海道を本籍地とする者の戦死・戦病死者数は一三二九人)、うち札幌区・札幌郡(現江別市と広島町を除く)を原籍とする者のそれは五四人にものぼった(歩兵第二十五聯隊史)。このほか傷病兵がかなりの数にのぼったことから、軍人遺家族.傷病兵に対する救護が急がれた。三十八年七月、札幌奉公義会に出征軍人軍属家族生業扶助調査委員会が設置され、「生業扶助」の方法が実施されたことは前述したとおりである。これらのうちいわゆる傷痍兵となった人びとへは、愛国婦人会が札幌区出身者一五人に対し縮緬の記念帛紗を贈呈したり(北タイ 明38・10・28)、三十八年十二月には札幌座で札幌区戦死者遺族廃兵救護演芸会を開催して、その収益金を一人五円ずつ、傷痍兵五人、戦死遺家族二一人を含めて三〇人に贈った(北タイ 明38・12・23)。しかし、一家の働き手を失った家族にとってこれで癒されるはずはなかった。