三十七年二月に日露戦争が勃発すると、同会はただちに出征軍人の遺族救護を目的に、金五十円を北海道尚武会に寄付するとともに、十二月四日の七周年記念式においては「軍国婦人の心得に就いて」の演説を行った。同会員数はすでに二〇〇〇人を上回り、西本願寺別院で毎日曜日開催される日曜女学校に出席する会員は約三〇〇人に達し、遠くは岩見沢からも参加した(北タイ 明37・12・8)。会長は大塚富世子(愛婦道支部長)、副会長は大島信子、古垣トメ子(両者ともに愛婦副会長)であった。
日曜女学校は、学校教育を受けられない少女のために、また学校に通っている人たちのために補習をさせ、日曜日をもっとも有益に過ごさせようとの趣旨で始められた。内容は女礼式、生花、編物、裁縫、唱歌、仏教講話などで、会費は正会員で一五円であった(北タイ 明38・9・26)。その後四十年十一月、日曜女学校は一〇周年記念式と合わせて学校組織として新築開校した(北タイ 明40・11・25)。
明治四十五(一九一二)七月五日、仏教婦人会聯合本部長の九条武子(大谷光瑞法主の妹)が来札、同会幹事一〇余人は小樽駅まで出迎え、札幌駅でも役員その他有志数十人が出迎える大歓迎ぶりであった。さらに駅より西本願寺別院までは約六〇台の人力車を連ね、会員たちをはじめ札幌市民の熱烈な歓迎を受けた。翌六日には日曜女学校の生徒成績展覧会を見学、さらに同会第二回総会に臨んだ。この時、九条武子は歌志内、滝川、深川、旭川方面まで巡回している(北タイ 明45・7・5~8)。また同会は、大正七年の開道五〇年記念北海道博覧会記念事業として、聯合婦人大会を西本願寺別院で開催した(北タイ 大7・9・1)。
写真-11 仏教婦人会聯合本部長九条武子
このほかに大谷派や高田派に属する婦人会もそれぞれ活動していた。前者は山鼻本願寺を本拠とする婦人法話会支部として、後者は高田別院を本拠としていた。さらに、中央寺吉祥婦人会、経王寺村雲婦人会などさまざまな団体もあった。