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地域女性団体

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 日露戦争下において、愛国婦人会帝国婦人協会の活動に刺激される形で、地域共同体を基盤にした女性団体が各地に設立された。札幌村婦人会もその一つである。同会は、明治三十八年八月、札幌村の藤古小学校高野守校長と橘仁夫妻が発起人となり発足した。呼びかけに対しただちに五〇人以上が加入、懇親会には一〇〇人以上が集まるといった盛会ぶりであった(北タイ 明38・8・18)。翌三十九年東北地方の凶作窮民の状況を知ると、役員らが会員に勤倹貯蓄を呼びかけ、村役場を通じて献金活動を行った(北タイ 明39・3・9)。四十年二月には第一回春季会が開催され、老若婦人数百人が出席した。この会合で、高野校長は勤倹貯蓄を、小野村長は子弟の躾方を、野村神職は婦人の責任について講演した。それとともに婦人会の目的として、「第一は奉公の義務を尽す、第二は家庭及風俗の改良を謀る」ことが明らかにされた(北タイ 明40・2・20)。
 一方、藻岩村字伏見の伏見主婦会の歴史はさらにさかのぼる。その設立は定かではないが、『伏見史稿』(永田康治 大15)によれば、明治二十年代にすでに藻岩山の三十三観音像にちなんだ観音講が行われていたようである。毎月開かれる観音講には、各自重箱詰の手料理を持参して酒宴を催した。主婦会と名称を改めたのはいつかは定かでないが、同書に明治四十五年四月、主婦会観音講で善行者の表彰を行い、斉藤クメはじめ五人が表彰されたとある。この後も観音講は毎月行われていたようで、年一回の総会も開かれるようになり、大正六年の総会では巡査の衛生講話や感化院長小池九一の精神講話もあり、三六人が参会したという(北タイ 大6・6・15)。
 このほか日露戦争を契機に設立された地域女性団体に、軽川婦人懇話会豊平婦人会がある。活動内容は両会ともにもっぱら出征軍人家族や遺族等の困窮者への救護活動であった。