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女店員

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 女子事務員と並んで、明治末から大正期にかけて女性の職業として華やかな存在である女店員は、まさにこの時期の誕生である。日露戦争後の三十九年、札幌興農園がはじめて「婦人販売係」を募集した。採用条件は一六歳以上、高等小卒の者となっており、「婦人販売係」には「セールスガール」のルビさえふるというハイカラさが目を引いた。札幌興農園は翌四十年二月、電話が五番であることから「五番舘」を通称名に用いることを宣言(北タイ 明40・2・2)、やがて四十三年、札幌駅前通に面して赤煉瓦造りのハイカラな建物を新築して開店した。セールスガール、すなわち女店員がこの時公けにお目見えし、市民を驚かせたようである。これはこの時経営方針の組織替えを図り、従来農機具や種物中心であったものを、下駄、小間物、玩具、瀬戸物、金物、缶詰、呉服、書籍、文房具までを扱うデパートメント方式に改めたことと、大いに関係があった。大正二年には、男女の店員約六〇人が働いていたが(北タイ 大2・11・14)、十年には女店員だけでも九五人にのぼり、うち七〇人がトレードマークの白いエプロン姿で売場に立った。女店員の勤務時間は、営業時間の午前八時半より午後六時までの前後の時間を含めると、一〇時間半にもおよんだ。しかし、勤務時間が長い割に衛生状態が良かったのか、欠勤者は意外に少なかった。賃金は、最初は日給四〇銭であるが、高女や実科卒業生もいるので、月最高六五円を給与されている者もいたという。平均年齢は一九歳、なかには四〇歳以上の者もいたが、平均勤続年数は三年と短い。女店員の修養機関は特にないが、時々支配人が執務、営業、社交について訓話をする程度であった(北タイ 大10・2・8)。

写真-14 札幌興農園婦人販売係募集広告(北タイ 明39.8.19)


写真-15 五番舘のエプロン姿の女店員(大正期)

 これに比べ、大正五年に今井呉服店から百貨店へと装いを変えた丸井は、翌六年はじめて女店員五〇人を募集したところ、約一〇〇人も応募者があり、体力、学力、品性の面から四六人を採用した(北タイ 大6・9・20)。採用条件は、一四歳以上の未婚女性に限ったので、十年には二九歳までの六〇人の女店員が働いていた。賃金は日給五〇銭くらいから月四〇円の者までいたが平均日給八〇銭くらいで、年二回の賞与があった。勤務時間は午前八時半から午後六時までの九時間半と長い。しかし、勤務時間内に裁縫を一時間くらい習うこともできた。店員教育は厳しく、実務に必要な知識を授け適正配置につけるとともに、服装や礼儀作法については女店員監督が細心の注意を払っていた。このため、通信箋を家庭との連絡に用い、本人の勤務態度や退店時間等まで記入して毎日親権者の印を求めなければならなかった(北タイ 大10・2・6)。
 このほか冨貴堂書房でも、大正七年女店員を学科と面接試験とを取り入れて採用したが、自宅通勤者に限っている(冨貴堂小史七〇年のあゆみ)。