明治期の札幌にとって、人の足として、また荷物の運搬に重要な役割を果たしていたのが馬であった。札幌で馬車鉄道の端緒となったのは石山での軟石採掘で、明治三十七年に助川貞次郎、藪惣七、福井正之、高瀬金太郎の四人が各一万円ずつ出資して札幌石材馬車鉄道合資会社を設立した。やがて、平岸村字穴の沢(現南区石山)から藻岩村山鼻(現中央区南二西一一付近)にいたる間七・二マイルの馬車鉄道敷設の特許を得、四十二年二月に完成をみた。これは貨物のみならず乗客も運搬した。人を乗せる客馬車は一二人乗りで、料金は一区三銭、一日三往復となっていた。同年七月には、会社も資本金三〇万円の株式会社に改組され、定山渓方面の開発が進むにつれ、乗客をはじめ木材・雑穀などの輸送も増加、本業を石材採掘から馬鉄に絞るようになった。四十三年には鉄道との連絡をよくするため山鼻の終点をさらに北に延長、北五条通を東進して札幌駅前まで軌道を敷設した。
大正元年八月、増資とともに札幌市街馬車軌道株式会社と名を改め、区内枢要な地域に次々と馬鉄路線を敷設し、区民の足となった。
馬鉄が区内を走るようになり便利になったものの、糞尿の処理に苦慮する一面もあった。折しも大正七年に開道五〇年記念北海道博覧会が札幌区を中心に開催が決定、電車に切替える絶好のチャンスとなった。すでに札幌区内の電力の消費量は目ざましく、大正二年には電灯の普及だけでも八五〇〇戸に達していた。同五年十月、会社は社名を札幌電気軌道株式会社と改め、電気軌道の経営を決議した。電気軌道工事の着工は七年四月のことで、道博の準備が急ピッチで進行する中工事が進められたが、八月一日の開会式には間に合わず、昼夜兼行の工事が進められた結果、八月十二日から営業開始となった。こうして道博会場へ観覧者を輸送する大動脈となった。
電車賃は、はじめ片道六銭、往復一〇銭であったが、物価高騰を理由に同九年、片道七銭、往復一二銭に値上げされた(北タイ 大9・9・18)。