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小学校卒業後の進路

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 小学校を卒業した少年少女はその後、どのような進路を選んだのであろうか。また、それは時期によってどのように変化するのであろうか。
 最初に尋常科の卒業生の動向に注目して見よう。「札幌区内尋常小学校児童卒業後調」(表5)は、札幌区役所が明治三十六年度から三十九年度までの創成、札幌女子、豊水の各尋常小学校と北九条尋常高等小学校の尋常科の卒業生を対象に調査したものである(札幌区役所 明治四十二年度予算資料)。この調査から明らかなように、日露戦争を開始した三十七年度は若干下がるが、尋常科卒業生の約九〇パーセント(男女平均)は高等科へ進学していた。しかし、どの年度もそれへの進学率は男子が女子を上回っている。次第にその差は縮まる傾向にはあるが、やはり女子には「学問」を不必要とする、性の違いによる教育差別が厳然と存在していたといえよう。
表-5 札幌区尋常小学校卒業後調
年度卒 業 者高等科進学者家事手伝いそ の 他
明36
345 
 

257 
 

322 
93.3%

 220 
85.6%

18 
 

37 
 

5 
 

- 
 
 37256 283  
223 
87.1%
 
325 
79.5%
29 58 4 - 
 38288 325  
275 
95.5%
 
294 
90.5%
11 28 2 3 
 39343 344  
310 
90.4%
 
300 
87.2%
23 40 10 4 
札幌区役所『明治四十二年度予算資料』より作成。

 次に高等科の卒業生の動向である。学校別に見ていこう。三十六年度の創成高等小学校の卒業生は一〇六人であった。そのうち進学者の正確な人数は不明であるが、札幌逓信管理局附属通信生養成所に進む卒業生が二一人で最も多く、そのほか札幌中学校へは一二人、北海道師範学校へは一人がそれぞれ入学した。卒業後、学校を離れて社会に出る卒業生も多く、二六人に上っていた。その内訳は商業見習八人、家事手伝い一五人、給仕二人などであった(小樽新聞 明37・3・27)。同校の三十七年度の卒業生のうち、中等学校などへの進学希望者は九八人で、非進学希望者の五〇人を大きく上回っている(小樽新聞 明38・3・28)。
 一方、札幌女子高等小学校では三十六年度の卒業生は七七人であった。その七〇パーセント近くは進学者で、北海道庁立札幌高等女学校へは一二人、私立北星女学校へは一六人が、残りは私立裁縫学校へそれぞれ入学した。また、教員や看護婦、電話交換手として社会に出る卒業生もいた(小樽新聞 明37・3・27)。同校の四十年度の卒業生一一六人中、高等女学校などへの進学者は九六人に上り、八二・七パーセントに達していた(小樽新聞 明41・4・5)。このようにデータ不足で全般的な分析はできないが、男女とも明治三十年代後半以降、高等科の卒業生の進路は、大半が中等学校への進学を目指していたといえよう。

写真-7 豊水尋常高等小学校卒業証書

 その一方で、経済的理由などによって小学校を中途退学する児童も女子に目立った。四十四年度末の「各小学校学年末ニ於ケル半途退学調」によると、高等科一年では一一三人、高等科二年では一四七人を数えた(札幌区役所 明治四十四年度予算調整資料)。これらをもとに中途退学率を算出すると、高等科一年では一五・八パーセント、高等科二年では三〇・四パーセントにそれぞれ該当する。後者は高率で、三・三人に一人の割合で中途退学していたことになる。特に札幌女子尋常高等小学校の高等科二年の中途退学率は三四・四パーセントに上っていた。学校別(単純集計)で見ると、札幌女子尋常高等小学校(六三人)、西創成尋常高等小学校(六〇人)、豊水尋常高等小学校(五五人)の三校が上位を占めていた。
 それでは、少年たちは将来どのような職業に就こうと考えていたのであろうか。創成高等小学校の三十七年度の卒業生に対する志望調査の結果を紹介しておこう(小樽新聞 明38・3・28)。それによると九五人中、最も多いのが商業で三二人であった。次いで農業が二四人、軍人が一六人、工業が七人の順となっている。逆に最も少ないのが、教員、医師などでそれぞれ一人ずつであった。しかし、この結果は調査校が札幌区の中心に位置し、また、時期が日露戦争の最中であることを考え合わせると、必ずしも当時の少年たちの一般的な傾向とは一致しないであろう。