この「中学校令」中改正では、中学校の目的を「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」(第一条)と規定し、十九年の「中学校令」から「実業ニ就カント欲ス」という実業教育的性格規定を除去した。そして、中学校の修業年限は原則として五カ年とし、その入学資格は年齢一二歳以上で、高等小学校第二学年の課程修了者とすることも合わせて規定した。中学校の設置に関しては、「中学校令」中改正では「北海道及府県ニ於テハ土地ノ状況ニ応シ一箇以上ノ中学校ヲ設置スヘシ/文部大臣ハ必要ト認ムル場合ニ於テ府県ニ中学校ノ増設ヲ命スルコトヲ得」(第二条)と規定し、その拡大を促す趣旨のように受け取れるが、実際にはそれを抑制する立場にたっていた(米田俊彦 近代日本中学校制度の確立)。また中学校の経費は、北海道と沖縄県を除いて各府県の負担となっていた。
中学校の学科目は「中学校令施行規則」(文部省令第三号 明34・3・5)によると、修身、国語及漢文、外国語、歴史、地理、数学、博物、物理及化学、法制及経済、図画、唱歌、体操の一二科目と規定された。外国語は英語、ドイツ語、フランス語のうち一カ国語を選択することになった。
さて、札幌区内の中学校への進学希望者は、三十三年以降増加の一途をたどったが、それに拍車をかける大きな契機となったのは、尋常小学校第六学年と中学校第一学年とが制度上接続した四十一年の義務教育年限の延長である。札幌中学校の志願者を見ても、表6(本章一節)のように四十三年度は五七〇人、四十四年度は六七二人に達していた。そのうちの入学者は四十三年度一四四人、四十四年度一二九人というように、全体の二〇~二五パーセントに過ぎなかった(表6)。また、全入学者に占める札幌区内の小学生の人数を、同校開校当初から見ても、二十八年度八一人中二九人(三五・八パーセント)、三十年度一〇九人中四四人(四〇・四パーセント)、三十二年度一五七人中五五人(三五・〇パーセント)、三十四年度一四三人中四二人(二九・六パーセント)、三十六年度一六〇人中三三人(二〇・六パーセント)、三十八年度一二二人中六三人(五一・六パーセント)、四十年度一三九人中六〇人(四三・二パーセント)というように、最高でも半数程度であった(北海道庁立札幌中学校一覧)。四十三年度は一四四人中九八人で、ようやく七〇パーセント近くに達した(北タイ 明43・4・26)。
しかし札幌区内の志願者全体から見れば、入学者は三〇パーセントに満たなかった。これは当時の北海道の中学校が、公立では札幌中学校(明28)のほかに、函館中学校(明28)、小樽中学校(明35)、上川中学校(明36)の三校、私立では北海中学校(明38)のみであったように学校数自体が少ないこともあって、志願者が札幌・空知の両支庁を中心に全道から集まり、入学が非常に難しい状況になっていたためである。また、他府県からの入学者が一〇パーセント以上を占めていたことも、札幌区の小学生の入学をより困難にさせた要因として見のがせない(北海道庁立札幌中学校一覧)。
このような小学生の中学校への入学難は、当時の札幌区では「当区に於ける中等教育の欠陥」(北タイ 明44・4・8)という認識が支配的であった。四十四年四月には、こうした事態を解消するために札幌区内に中学校の増設を目指す「中等学校設立期成会」が誕生した。同会は同年四月二十五日、創立総会を開催し、会長には藤井民次郎、副会長には永田巌、幹事には奥泉安太郎・三島常磐ら一〇人をそれぞれ選出した(北タイ 明44・4・26)。また、評議員には高橋宗吉、真弓広美、宮村朔三、村田不二三ら三〇人を選出した(北タイ 明44・4・27)。これらの役員の大半は弁護士や実業界出身の区会議員であった。
同会は札幌区教育会内に事務所を置き(同前)、四十四年五月には「札幌中学校分校設立の義に付請願」を北海道庁長官に提出した(北タイ 明44・5・10)。それによると、札幌区には「庁立中学校以外私立北海中学校ありと雖も中等教育の機関未だ足れりとせず殊に中学校に於て著しく其増設の必要を認め一日も黙過するを得ざる」というように中等教育の現状と課題を踏まえたうえで、中学校増設の理由を次のように述べている。「札幌中学校の現況を見るに入学志願者は年一年増加するも其収容人数に制限」があり、「入学し得ざる者甚だ多く是等多数の青年は全く其方向に惑ふの悲境に陥り今にしてこれが救済の策を講ずるにあらざれは将来有□なる青年をして其生涯を誤らしむる結果」となる危険性を指摘する。そして、当面の方策として「現在の中学校を拡張して一分校を設置し以て目下の急を救ふ」ために、「明治四十五年度を期し中等分校を開設するの計画を立てこれを予算に編入」することを要請した。また、設立に必要な「敷地と建設費の幾分」の寄付も合わせて申し出た。後に、校舎建築費四万一三〇〇円と敷地約一万坪は北海道地方費に寄付することを四十四年第六回区会で決定した(議案第一号 寄付行為并不動産権利得喪ニ関スル件)。
同年六月には、同会役員の藤井民次郎、永田巌、奥泉安太郎らは、改めて内務部長山田揆一に面会し「庁立中等学校設立の止むべからざる旨を」陳情した(北タイ 明44・6・27)。一方、行政側の札幌区長青木定謙も「中等学校設立問題は昨年来の懸案にして今日に初まりたるにあらざるも此度は愈々之れが実行運動に着手せんとするものにて中学志願者増加の趨勢に鑑み之れが設立は実に刻下の急務」(北タイ 明44・4・27)というように、同会の現状認識と隔たりはなかった。
四十四年の北海道会第一一回通常会では、札幌区の増設分も含めて中学校四校の新設計画が提案された(北海道教育史 全道編三)。これに対して、議員から中学校の新設は実業教育を軽視する、あるいは寄付行為による設立は都市集中を招くなどの反対もあって、採決では賛否同数となったが、議長裁定で可決の運びとなった(同前)。
道会での可決後、「中等学校設立期成会」は建設地の検討と中学校建築費指定寄付金四万一三〇〇円の募集に乗り出した(北タイ 明44・10・19)。この時点で、設立形態は札幌中学校の分校ではなく、「独立せる札幌第二中学校」とすることが決定した(小樽新聞 明44・10・25)。当初、建設地に関しては、以前京都合資会社から北海道師範学校用として札幌区に寄付された北二〇条西二丁目の土地が有力視されていた。しかし、同地は「泥炭地にして水質又良好ならず殊に風紀の悪しき点に於て区内に冠たり」(北タイ 明44・11・20)という理由で反対も多かった。反対者は日野喜代治、脇屋愼造を中心に「新設中学校敷地変更期成会」を組織し(小樽新聞 明45・2・18)、新たに「桑園方面」を候補地として提案した(小樽新聞 明45・3・6)。その一方で、賛成者は久保兵太郎、大見鶴吉を中心に「擁護運動」を展開した(小樽新聞 明45・2・27)。このように建設地問題は泥沼化していったが、最終的には北海道庁に一任し、両地を「検分」のうえ、明治四十五年六月に「桑園方面」を建設地と決定した(小樽新聞 明45・6・7)。「桑園方面」とは北三条西一八、一九丁目のことである。
写真-13 「新設中学校敷地変更期成大会」案内(北タイ 明45.3.8)
中学校建築費指定寄付金の募集は祭典区別に割当をしたが、当初からその活動が「行悩み」、札幌区の特別会計中の「病院基本財産」から北海道庁へ「立替納入」した(小樽新聞 大2・3・17、大3・7・20)。この補塡は大正三年度後期から三カ年半にわたる区税賦課の方法で徴収することを決定し、区民に新たな負担を強いることになった(小樽新聞 大3・9・30)。北海道庁立第二札幌中学校は大正二年四月に開校した(四年北海道庁立札幌第二中学校と改称)。この件に関して、同校の開校式で内務部長山田揆一は来賓の札幌区助役、区会議員に対し「本校は庁立なるも其新設費は札幌区の寄付にかゝり尚一層明瞭に説明せば区民有志の寄付にかゝるものなれば其取纏方に就きては充分なる誠意尽力を希望す」(小樽新聞 大2・4・11)と述べていたが、区民皆負担という当初の計画とは全く異なる方法で補塡されることとなった。「中等学校設立期成会」の役員であった区会議員の永田巌、村田不二三ら四人はこの責任を取り辞職した(小樽新聞 大3・9・18)。
このような第二札幌中学校の設立運動は「中等学校設立期成会」という、主として実業界出身の区会議員=「富裕者」を中心に進められた。これは資質の優れた労働者や後継者を待望する実業界からの要請に基づくものであったことを窺わせる。また同時に、一定の学力と経済力を持つ者だけが入学できる中学校の特権的性格を浮き彫りにするものである(米田 近代日本中学校制度の確立)。一定の学力と経済力が伴わない進学希望者に対しては、その「代替物」である小学校高等科や実業補習学校を用意していた。ちなみに、開校時の第二札幌中学校の授業料は、一人一カ月に付き二円五〇銭で(北海道庁告示第二号 大1・1・7)、札幌区立小学校高等科六〇銭、同実業補習学校二〇銭と比較してきわめて高額であった。
こうした中学校設立運動は、札幌区よりも小学生が多い当時の函館・小樽の両区では表面化しなかった。その理由は、函館区には北海道庁立函館商業学校、同函館商船学校、小樽区にも北海道庁立小樽水産学校など実業学校が中学校の「代替物」としてすでに整備され、また中学校志願者も札幌区と比較して大幅に少なく、競争率も低かったからである。ちなみに、函館中学校の四十三年度の志願者は一六〇人で、入学者は一三一人(競争率一・二倍)、同じく四十四年度は志願者一七〇人に対して入学者は九〇人(同一・九倍)であった(全国中学校ニ関スル諸調査)。