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北九条尋常高等小学校附属通俗図書館

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 北九条尋常高等小学校内に通俗図書館の前身である縦覧所が開館したのは、明治四十年である。開館月日は、明治四十二年七月に作成した同小の『沿革誌』(A)では九月十五日と記している。しかし、昭和十五年六月作成の『沿革誌』(B)には同月十六日と記され、その翌日を開館日としている。A、Bの記述のうち、どちらが正確であるのかは現時点では確認できない。
 『沿革誌』(B)の記述によると、同図書館の設立に向けて具体的な活動を開始したのは、開館の一カ月ほど前の四十年八月十八日である。この時が第一回発起人会であるが、協議内容は不明である。第二回のそれは九月十二日で、「毎月ノ醵金将来ノ計画等」を協議した。発起人として名前を連ねているのは板谷新之松、小森伊五郎、吉岡佐市、山沢勝太郎、それに小山準平の五人である。小山は同小の校長で、北海道教育会附属図書館の設立にも関与し、図書館経営に意欲を持っていた人物である(谷口一弘 明治末・大正期北海道における通俗図書館について 一)。そして、九月十六日には『沿革誌』(B)に「尋常科第四学年以上ノ児童ニ対シ本校備付ノ書籍新聞雑誌ノ縦覧ヲ許ス旨公告ス」と記すように開館の運びとなった。開館時の蔵書数はわずか一〇二冊に過ぎなかった。それも、一部には江見水蔭『地底探検記』、井上勤『月世界旅行』などの通俗読物も含まれているが、大半は教員用の参考書類であった。同図書館の設立目的は「児童ニ対シ本校備付ノ書籍新聞雑誌ノ縦覧」だけではなかったことは、蔵書構成がそれを物語っている。これはあくまでも便宜的な措置で、まず既成事実を作り上げることを先行したのである。
 それでは同図書館の本来の設立目的とは何であろうか。それを具体的に示しているのが「通俗図書館設置趣意書」(札幌区役所 明治四十一年一月起 参考 雑之部)である。作成の時期は「明治四十年」以外は不明であるが、その後の活動を考え合わせると、おそらく八月ないしは九月の発起人会で成案を得たものと思われる。そこでは、日露戦争後の日本が「世界一等国」として国際的に認められたことを踏まえ、「智識ヲ開発シ徳性ヲ涵養」する手段としての読書の重要性を指摘したうえで、次のように述べている。
 読書ヲ以テ智徳ヲ開運シ、之レヲ人世ニ応用シテ愆ラザルニ及ンデ始メテ欧米ノ人士ト伍シテ耻ヂザルニ至ラン。是レ今回北九条尋常高等小学校内ニ附属通俗図書館ヲ設置セント欲スル所以ナリ。抑当札幌区ニハ北海道教育会附属図書館アルノ外、他ニ所謂図書館ナルモノアルヲ聞カズ一大欠点ナリト謂フ可シ。北海ノ首都上ハ農科大学校ヨリ下小学校ニ至ルマデ人材ヲ育成陶冶スル所ナキニ非ズト雖モ、尚幾多ノ俊材空シク青雲ノ志ヲ抱イテ陋屋ニ蟄居スル者、或ハ中途退廃学ヲ為セル者亦尠少ナラザル可シ。小人閑居シテ不善ヲナストハ誑カザルナリ。此等ノ青年ニシテ為ス所ナクンバ遂ニ放肆怠慢ノ徒トナルカ(中略)、図書館ハ即古来ノ群賢悉ク一同ニ臻リ親シク是等青年ノ為メ厳師慈父ノ労ヲ取リ能ク指導教育ノ任務ヲ尽スガ故ニ智徳開運シ品性高尚トナルハ勿論学業ニ精励スルノ習慣ハ以テ実業ヲ嗜好スルノ階梯トナリ目的ヲ立ツル指針トナリ彼岸ニ到達スルヲ得セシム可シ、矧ヤ通俗図書館ヲ開設スルハ文部省及北海道庁ニ於テ戦捷紀念トシテ之レヲ奨励スルニ於テヲヤ諸君、奮テ賛同セラレヨ


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写真-21 通俗図書館設置趣意書(明40)

 これを読むと、同図書館の設立は直接的には、日露戦争の「戦捷紀念」施設として「厳師慈父」の役割を担い、札幌の社会のなかでドロップアウトした青年の教化を主眼としていたことがわかる。これは当時の青年層の「風紀の乱れ」を憂慮し、三十九年六月に文部大臣牧野伸顕が発した訓令(文部省訓令第一号 明39・6・9)に基づいて設立されたものと考えてよい。こうした青年の教化には当時、「小学校ヲ以テ教化ノ中心タラシムルノ理想ヲ実現セシムベシ」というように小学校(教員)の指導的役割が期待されていた(宮地正人 日露戦後政治史の研究)。また、文部省は日露戦争後、青年層を主体とした国民教化の視点から通俗教育の重要性に着目し、その振興に力を注いだ。その柱として位置づけられたのが図書館であった。同図書館はまさにそうした政策の中核的施設としての小学校と図書館が結合したもので、日露戦争後の青年層のエネルギーを国家目標に沿って吸収するための装置であった。
 『沿革誌』(B)には、同図書館の設立目的を「本区北方文化ノ発展ニ資スル」と記している。しかし、この当時は「北方文化」という概念は成立していなかった。これは昭和十二年設置の北海道帝国大学北方文化研究室に象徴されるように、ファシズム期の概念である。おそらく昭和十五年の作成時に新たに書き加えたものであろう。ちなみに、北海道内の「戦捷紀念」図書館としては、三十九年に「日露戦役紀念私立網走図書館縦覧所」が設立された(年表・北海道の図書館)。
 この「通俗図書館設置趣意書」と同時に、同図書館の閲覧規程の作成も検討した。現在、「通俗図書館規程」「通俗図書館閲覧規程」「北九条尋常高等小学校図書縦覧規程」の三種類を確認できるが(札幌区役所 明治四十一年一月起 参考 雑之部)、成案は最後の「北九条尋常高等小学校図書縦覧規程」であると思われる。これは九条から成り、第一条では「本校ニ於テハ広ク公衆ノ為メニ備付ノ図書、個人若シクハ団体ノ寄贈ニ係ル図書ノ無料閲覧ヲ許ス」と規定している。ここで注目すべきは閲覧料を無料としたことである。当時の北海道教育会附属図書館は、一人に付き一回一銭を徴収していたことを考え合わせれば、非常に画期的であるといえよう。第三条は同図書館内の事務分掌で、図書係と庶務係の二係制を敷いていた。第四条以下では図書の閲覧、携帯の方法などを規定している。
表-8 北九条尋常高等小学校附属通俗図書館統計
年度蔵書冊数開館日数閲覧者数1日平均
明40684冊158日-人-人
 41968294
 428143614,51312.5
 431,0393526,01117.1
 441,12514446032.0
大 11,229
  21,9983145,08816.2
  31,6052948,45828.8
  41,78528314,66951.8
  52,19629216,96558.1
  62,22828918,78565.0
  72,42329817,40658.4
  82,51829218,05361.8
  92,5272981,7906.0
 102,5372181,4976.9
1.同館は札幌区北九条図書館(大7),北九条図書館(大9),鉄北図書館(大10)と館名を改めた。
2.明40~41年度は『附属図書館日誌』,明42~大10年度は『札幌区統計』『札幌区統計書』『札幌区統計一班』より作成。

 青年層の教化という設立目的も、当初は授業終了後の午後三時から午後五時までの限られた開館時間帯のなかでは事実上不可能で、「来観者女学生三名」(附属図書館日誌 明40・9・18)、「学生来観三名」(同前 明40・10・5)という状態であった。青年の利用を促進するために、日曜開館に踏み切ったのは明治四十年十月二十七日からである。夜間開館も戊申詔書の発布と軌を一にするように、四十一年十一月十七日から開始した。『沿革誌』(B)は、夜間開館を次のように記している。「毎月約六回(二及七ノ日)午後六時ヨリ同九時迄青年会員ノ為ニ特ニ縦覧所ヲ開キ読書ヲ許スコトトシ本日ヨリ実行セリ」。実際に、札幌実業青年会の会員は「読書会てふ名の下に毎月二、七の夜同館に集り会員互に有益なる書を読み智識を研磨し」(北タイ 明41・12・20)ていた。この夜間開館も青年会の読書会もそう長くは続かなかったようである。『図書館日誌』には当該記述が見当たらない。
 設立意図に反して、閲覧者の大多数は同校の児童と学生であった。大正三年二月の調査では閲覧者総数が三九三人に対して、同校児童が三三二人(八四・五パーセント)、学生が三二人(八・一パーセント)を占めていた(図書館日誌)。他には教員二五人、軍人二人、商人二人、無職一人、出面一人、労働者一人がそれぞれ閲覧していた(同前)。こうした傾向はその後も変化なく、四年五月の調査でも閲覧者総数が一〇三八人に対して、同校児童が九一九人(八八・五パーセント)、学生が八三人(八・〇パーセント)を占めていた(同前)。このような利用実態から推して、文部省が意図した図書館を中核とする青年層の教化活動は、十分な成果を上げることはできなかったといえよう。