このように明治三十年代には若干の旧派を残しつつも、札幌の俳壇は俳句改革の影響をうけて大きく変わっていったが、その傾向は四十年代から大正にかけて著名な俳人が来道することもあってさらに推進された。そしてその中から次巻以降大きく展開する地元派ともいうべき傾向も、一面で強くみられるようになった。
まず四十年四月に河東碧梧桐が来札した。河東は高浜虚子と共に正岡子規の主張する日本派俳句に共鳴し、三十年創刊の『ホトトギス』に参加したが、子規の死後虚子と対立し、新傾向の新風を唱導した。この来札も東北・北海道にその主張を普及しようとするもので、札幌には四月十九日着、二十四日に出立した。この来札には同年二月に深川に移っていた牛島縢六が同行し、二十日に「丁未会同人」の名で札幌俳句大会を開催した。丁未会については今まで知られていないが、四十年の干支が丁未なので、牛島、松村銀峰ほかが河東をむかえるために臨時に作ったものかも知れない。この影響としては、大正三年に来札した小笠原洋々が中心となって結成した「札幌俳句会」で、かなりの数の俳人がこの新傾向の会に入会した。
ついで四十二年八月に前記の島田五空が再び来札した。こののち島田の主宰する『俳星』系の俳人が来札して多くの俳人に影響を与え、小笠原はこの影響も強くうけた。
大正に入っては高浜虚子が八年十一月に来札した。虚子の子息が小樽高商へ入学したのを機としての来道であった。札幌での俳句大会は佐瀬子駿らによって同月七日に開催され、牛島滕六、青木郭公ほか約八〇人が出席した。この影響による代表的な動向としては、佐瀬、旭川の石田雨圃子、八年に松江から札幌へ転住した天野宗軒らを中心とした「有無会」の結成(大11・6)がある。さらに三年から『ホトトギス』地方俳句欄の選を担当していた長谷川零余子が、十一年に『枯野』を創刊して立体俳句を唱導し、十一年から十四年までで五回来道し、ホトトギス系の多くが『枯野』に投句するようになった。また、大正期を通して自由律俳句がさかんとなったが、十一年には山岡夢人らにより自由律俳句会が結成された。
以上、主要俳家の来札とその影響についての大略を記したが、このほかの結社の結成等を年次別に記すと、以下のとおりである。明治四十年「北吟社」(帝国製麻会社内、長谷部虎杖子ほか)、大正三年三月「椴松吟社」(出口叱牛ほか、『椴松』刊行)、四年『あとし』(藤森氷魚ほか)、五年『光風』(佐瀬子駿ほか)、『すずらん』(桐香庵一葉ほか)、十年『北』(小納迷人ほか)、十一年『野水』(川北夷風)。