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農村の歌舞伎

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 明治以降、移民の招来と共に、多くの民間に伝承された芸能も伝来した。獅子舞などは全道にかなりの事例がみられるが、歌舞伎になるとやはりわずかでしかない。たとえば十勝地方の売買村では明治三十九年の秋祭りにはじめて歌舞伎を上演し、昭和十年頃まで続いたという(帯広市史)。
 現札幌市域内では、この巻の時期には二つの農村歌舞伎が活動していた。一つは篠路村の烈々布集落に結成されたもので、のち篠路歌舞伎劇団と正式な名称が付された。この結成の動機は、明治三十一年に結成された若連中が、三十四年に年中行事として獅子舞をはじめたことによる(篠路烈々布百年)。翌三十五年に大沼三四郎(芸名花岡義信)を指導者として、四月二十五日の烈々布天満宮(のち烈々布神社)例祭に狂言「そこが江戸っ子」を上演、奉納した。これは歌舞伎といえるものではなかったが、花岡の指導と若連中(のち青進会、青年会)の熱意によって上達し、また四十四年には青年会が主体となって俱楽部が建築されると、上演はもとより練習にもそれが利用されるようになって一段の充実をみた。

写真-6 篠路歌舞伎の舞台(大正15年9月)

 大正六年になると、花岡は「素劇楽天会会則」を定め、その中で他町村の者も加入できるとし、演劇集団として地域をこえ、かつ青年会から一応独立した存在となることを明確にした。この結果たとえば丘珠、十軒などからも志望者が加わってこの団体は急速に成長し、さらに従来の俱楽部が老朽したため、青年会を中心に新たな俱楽部を新築したが、この建物は廻り舞台を設け、上演時には花道も設けることも可能なもので、これらにより烈々布における歌舞伎は最盛期を迎えたといってよい。
 もう一つは新琴似歌舞伎と呼ばれるものである。これは明治三十年に田中松次郎ら村の青年達によって歌舞伎芝居を演じたのが最初であった。その後も田中を中心に新琴似神社境内、知人の家、空き地等で演じていたが、明治四十三年に田中は自費で常設小屋の建設を決断し、同年十二月に名称を若松館とした「劇場開設願」を提出した。これによると同館は三間×五・五間の舞台および花道、五間×七間の観客席を持ち、入場定員三一〇人という、当時の村としては非常に大きなものであった。ただしこれは「自分所有ノ倉庫ヲ改築」(新琴似百年史)とあって新築ではなく、四〇〇円をかけて改造したものであった。
 田中松次郎はこれを拠点として歌舞伎の活動を続け、多い時で一座は五、六十人にまでなったといわれる。また村内に止まらず、幌向や岩見沢などへも巡業したが、経営的には赤字となった。そして若松館は経営が悪化して大正五年頃に閉館の止むなきに至り、同時に新琴似の歌舞伎もその幕を閉じることとなった。